人見知り猫ちぃが、口の中が痛くて、猫ご飯食べながら、なきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/7b/7c32b982c5bb6e9892b011d25663e0ee.png)
猫も口の手入れがマメな子とそうでない子がいるそうで、ちぃは後者の猫です。
カリカリを食べても、他の猫のように念入りに口の周りのお手入れをしません。
仕方がないので、時々、ガーゼを湿らせたものを指に巻き、
口の手入れをしてやりますが、すごい剣幕で怒るので、
こちらの指が危険と隣り合わせで、頻繁にはしません。
「どうにかして…」という顔で見つめてくるのですが、
大嫌いな病院行こうね、ちぃ。
世の中には色々な教材があります。
私も中学校で支援員をしていたときに、左右の区別がつかない子どもや
四季がわからない子、色々なものを比べて分類できない子どもたちと出会い、
幼児がやるような教材を買って来て、子どもたちとすることがありました。
すると、私が一緒に勉強していた子どもたちの何人かは、
幼稚園の受験や小学校の受験で問われるような、
とても身近な、自分の身の回りの出来事についての概念が抜けていることがありました。
たとえば、春という季節の次に夏がくるということ。
色づいた紅葉の葉を見て、秋を連想すること。
空が赤くなっていて、窓が黄色っぽい色になっている絵を見て、
時刻が夕方から夜に向かっていることを知ること。
キュウリやトマトが野菜というグループで、醤油やソースは調味料というグループだけど、
どちらもスーパーに行けば売っているグループでもあること。
そんな問題を「うーん、難しいね。」と少しぽかんとした顔で取組む、
普通のクラスに在籍する中学生の子どもさんと接していたときに、
この子は世の中をどういう風に見つめて13年間生きて来たのかなぁ、と
思わずにはいられませんでした。
その子は「友だちと遊ぶ。」といっては、
小学校が一緒の同級生の後ろをただついて回っているだけ。
そこで繰り広げられている話題の意味がわかる様子もなく、会話に入っていくことはもちろんせず、
ただただ、黙って、にこにこと頷いています。
しかし、そのうちに上手に撒かれて、ひとりでいることが多くなり、
「先生と勉強しようかな。」というので、一緒に勉強したり、話しをしたりすることでした。
一緒に勉強をしながら、ずっとおとなしい子だったからなのか、
それとも、興味を持つであろう年齢のときに興味を持てなかったからなのか、
色々な日常の「中学生なら知っている」とこちらが思うようなことを、
その子が知らないことに気がついて、上に書いたような問題を一緒に考えることになったのでした。
小学校では国語の時間は「書き取り」をしたり、「本読み」をしていたようで、
複雑ではない漢字なら、小3,4年生くらいのものは書けます。
文章もひらがなが続くとどこで区切ればいいのかわからなくなるようでしたが、読んでいました。
それなのに、「暖かい」と「暑い」の違いや
「まな板と包丁」の関係性などを推測するのがとても難しく、
一緒に「冬のお布団の中は温かいねぇ」とか「体育祭の練習で汗をいっぱいかいたね、暑いね」と話したり、
「朝ですよ、お味噌汁に入れるネギをまな板で切りますよ。包丁を持って、トントントントン…」などと、
まるで小さい子どもとするようなままごとのような勉強をとても楽しそうにしていました。
そういうことをしていたことを思い出すたびに、
フォイヤーシュタインでよく聞く言葉、「媒介」という言葉を思い出します。
この子は漢字で「温かい」「暑い」が書けても、
自分の体験としての「暖かい」と「暑い」がよくわからない。
一緒に走り回って、汗をかいて
「今のこの感じが、私にとっては『暑い』んだけど、あなたはどお?」
「暑い!」
「まな板でトントントン、で今日は卵焼きの匂いがしたよ。」と
朝の出来事をにこにこと話してくれたときには、
机上の問題集がその子の現実の朝とリンクした感じで、とても嬉しかったのを覚えています。
フォイヤーシュタインでいう媒介とは、
紙の上の勉強を本人の感覚や生活と結びつけていく手助けをすることで、
子どもが自分のことを客観的に見つめたり、必要なものを取ることができ、
自立した生活者、学習者になる道筋をつけるもの。
そういうことを改めて考えた、
フォイヤーシュタインIEワークショップをとりあえず終えての
自分なりのこれからのフォイヤーシュタイン教材での目指すところ、でした。
ちっとも教材と現実を自由に行き来できずに、
四苦八苦していますが、頭と体を使ってがんばります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/7b/7c32b982c5bb6e9892b011d25663e0ee.png)
猫も口の手入れがマメな子とそうでない子がいるそうで、ちぃは後者の猫です。
カリカリを食べても、他の猫のように念入りに口の周りのお手入れをしません。
仕方がないので、時々、ガーゼを湿らせたものを指に巻き、
口の手入れをしてやりますが、すごい剣幕で怒るので、
こちらの指が危険と隣り合わせで、頻繁にはしません。
「どうにかして…」という顔で見つめてくるのですが、
大嫌いな病院行こうね、ちぃ。
世の中には色々な教材があります。
私も中学校で支援員をしていたときに、左右の区別がつかない子どもや
四季がわからない子、色々なものを比べて分類できない子どもたちと出会い、
幼児がやるような教材を買って来て、子どもたちとすることがありました。
すると、私が一緒に勉強していた子どもたちの何人かは、
幼稚園の受験や小学校の受験で問われるような、
とても身近な、自分の身の回りの出来事についての概念が抜けていることがありました。
たとえば、春という季節の次に夏がくるということ。
色づいた紅葉の葉を見て、秋を連想すること。
空が赤くなっていて、窓が黄色っぽい色になっている絵を見て、
時刻が夕方から夜に向かっていることを知ること。
キュウリやトマトが野菜というグループで、醤油やソースは調味料というグループだけど、
どちらもスーパーに行けば売っているグループでもあること。
そんな問題を「うーん、難しいね。」と少しぽかんとした顔で取組む、
普通のクラスに在籍する中学生の子どもさんと接していたときに、
この子は世の中をどういう風に見つめて13年間生きて来たのかなぁ、と
思わずにはいられませんでした。
その子は「友だちと遊ぶ。」といっては、
小学校が一緒の同級生の後ろをただついて回っているだけ。
そこで繰り広げられている話題の意味がわかる様子もなく、会話に入っていくことはもちろんせず、
ただただ、黙って、にこにこと頷いています。
しかし、そのうちに上手に撒かれて、ひとりでいることが多くなり、
「先生と勉強しようかな。」というので、一緒に勉強したり、話しをしたりすることでした。
一緒に勉強をしながら、ずっとおとなしい子だったからなのか、
それとも、興味を持つであろう年齢のときに興味を持てなかったからなのか、
色々な日常の「中学生なら知っている」とこちらが思うようなことを、
その子が知らないことに気がついて、上に書いたような問題を一緒に考えることになったのでした。
小学校では国語の時間は「書き取り」をしたり、「本読み」をしていたようで、
複雑ではない漢字なら、小3,4年生くらいのものは書けます。
文章もひらがなが続くとどこで区切ればいいのかわからなくなるようでしたが、読んでいました。
それなのに、「暖かい」と「暑い」の違いや
「まな板と包丁」の関係性などを推測するのがとても難しく、
一緒に「冬のお布団の中は温かいねぇ」とか「体育祭の練習で汗をいっぱいかいたね、暑いね」と話したり、
「朝ですよ、お味噌汁に入れるネギをまな板で切りますよ。包丁を持って、トントントントン…」などと、
まるで小さい子どもとするようなままごとのような勉強をとても楽しそうにしていました。
そういうことをしていたことを思い出すたびに、
フォイヤーシュタインでよく聞く言葉、「媒介」という言葉を思い出します。
この子は漢字で「温かい」「暑い」が書けても、
自分の体験としての「暖かい」と「暑い」がよくわからない。
一緒に走り回って、汗をかいて
「今のこの感じが、私にとっては『暑い』んだけど、あなたはどお?」
「暑い!」
「まな板でトントントン、で今日は卵焼きの匂いがしたよ。」と
朝の出来事をにこにこと話してくれたときには、
机上の問題集がその子の現実の朝とリンクした感じで、とても嬉しかったのを覚えています。
フォイヤーシュタインでいう媒介とは、
紙の上の勉強を本人の感覚や生活と結びつけていく手助けをすることで、
子どもが自分のことを客観的に見つめたり、必要なものを取ることができ、
自立した生活者、学習者になる道筋をつけるもの。
そういうことを改めて考えた、
フォイヤーシュタインIEワークショップをとりあえず終えての
自分なりのこれからのフォイヤーシュタイン教材での目指すところ、でした。
ちっとも教材と現実を自由に行き来できずに、
四苦八苦していますが、頭と体を使ってがんばります。