バイクの慣らしがてら、仕事帰りは遠回りして帰っています。
すると、「健昌城跡」の文字。
むむ?と思ったものの、通り過ぎてしまいました。
家に帰って、地図やら見ると、縄文の頃から人が住んでいた気配のする場所。
近くにこんなとこあるんだ~と、思いましたが、
古代に思いを寄せる想像力がイマイチないので、へぇ~と思ったまで。
気が向いたら、寄ってみようと思います。
『学びの物語』という本を読んでいます。
この本の中では、バーバラ ロゴフの『文化的営みとしての発達』という本の内容を引用しながら、
子どもの発達というものには、その子の暮らす地域やその子が属する文化によって、
予想を上回る大きな多様性がある、というような件があります。
そこでは、コンゴのイトゥリの森に暮らす生後11ヶ月の赤ちゃんが、
身の丈半分を超える長い鉈(なた)を巧みに操って果実を割っている例が挙げられています。
その子は特別能力が高い訳ではなく、コンゴのイトゥリの森の赤子たちは、
みんな同じように1歳前後で鉈を使いこなしはじめるそうです。
そんなことが可能になるのは、自分でうろうろと探索をはじめる6ヶ月頃から、
興味深げに鉈に近づく赤子を注意深く見守る大人たちが居るからだそうです。
この大人たちはもっと小さな鉈を与えたり、
手を添えたりして、赤子の活動を援助し、割りやすい大きさの果実を与えたりして、
一歩先を見越した足場作りをした上で、注意深く見守っているに違いない、と記されています。
そして、そのことが次のように書かれています。
(自分より有能な他者である)大人との共同作業によってはじめて人間は発達していくのです。
ある年齢段階に達することによってその内部に能力が進展してくるという
「個体発生的発達」だけをみているだけでは、発達の真の姿は見えてきません。
赤ちゃんの「関心」に共感を寄せ、その「力強さ」に期待を寄せる大人が、
一歩先にある課題ーより有能な他者との共同・援助によってはじめて達成することのできる「発達の最近接領域」ー
を見通しながら、赤ちゃんが活躍できる「足場」を広げ高めるよう適切に援助することによって、
鉈を扱う能力が獲得されていったのです。
そして、この地域では鉈という道具が、
生産、衣食住、厳粛な儀式など生活のあらゆる場面で大活躍する必需の道具で、
家族や大人が頻繁に使い、大切にしている道具であることを赤ちゃんもよく知っていると記され、
そんな道具だからこそ、社会活動への意欲的な参加、大人からしてみれば遊びのようでも、
そこから始まって、使用方法や操作性が広がり、
赤ちゃんから子どもへ、少年、青年と繋がって、活動の範囲も豊かになっていく、
そんなようなことが書かれていました。
これは、この本のほんの最初の一部の内容に過ぎませんが、
私は、共感もし、とても考えさせられもしたのです。
というのは、私が子どもたちと学んでいる、と思っていることは、
どれほどの文化基盤があるものなのかな、ということを考えたからです。
また、子どもをコンゴのイトゥリの森の大人たちほどに、
注意深く見守り、彼らの関心や意欲に基づいたところに気がつけているのかな、と思い、
それも、うーーーーん、と考えずにはいられなかったからです。
今の私たちの生活の基盤になる文化って、なんだろう。
スマートフォンで、かちゃかちゃ器用にこなすこと?
ほとんどの子どもたちは、大人の見よう見まねで、そんなことはできています。
そう、コンゴのイトゥリの鉈を使う11ヶ月の赤ちゃんと同じように。
よいしょ、と座るのがやっとの赤ちゃんでも、
画面をいじって自分のお気に入りの画面を出せているのを何度も見たことがあります。
きっと、私たち大人の必需品と知って、子どもたちも使いこなせているんですね。
子どもの他の部分の発達を思うならば、
私たちが他のものに心から真剣に取り組んでいれば、子どもも真似したくなるんでしょうか。
そして、子どもの小さな関心の芽に気づき、見守る力があるのか?
なんだか、ため息の出る、読書のはじまりとなったのでした。
すると、「健昌城跡」の文字。
むむ?と思ったものの、通り過ぎてしまいました。
家に帰って、地図やら見ると、縄文の頃から人が住んでいた気配のする場所。
近くにこんなとこあるんだ~と、思いましたが、
古代に思いを寄せる想像力がイマイチないので、へぇ~と思ったまで。
気が向いたら、寄ってみようと思います。
『学びの物語』という本を読んでいます。
この本の中では、バーバラ ロゴフの『文化的営みとしての発達』という本の内容を引用しながら、
子どもの発達というものには、その子の暮らす地域やその子が属する文化によって、
予想を上回る大きな多様性がある、というような件があります。
そこでは、コンゴのイトゥリの森に暮らす生後11ヶ月の赤ちゃんが、
身の丈半分を超える長い鉈(なた)を巧みに操って果実を割っている例が挙げられています。
その子は特別能力が高い訳ではなく、コンゴのイトゥリの森の赤子たちは、
みんな同じように1歳前後で鉈を使いこなしはじめるそうです。
そんなことが可能になるのは、自分でうろうろと探索をはじめる6ヶ月頃から、
興味深げに鉈に近づく赤子を注意深く見守る大人たちが居るからだそうです。
この大人たちはもっと小さな鉈を与えたり、
手を添えたりして、赤子の活動を援助し、割りやすい大きさの果実を与えたりして、
一歩先を見越した足場作りをした上で、注意深く見守っているに違いない、と記されています。
そして、そのことが次のように書かれています。
(自分より有能な他者である)大人との共同作業によってはじめて人間は発達していくのです。
ある年齢段階に達することによってその内部に能力が進展してくるという
「個体発生的発達」だけをみているだけでは、発達の真の姿は見えてきません。
赤ちゃんの「関心」に共感を寄せ、その「力強さ」に期待を寄せる大人が、
一歩先にある課題ーより有能な他者との共同・援助によってはじめて達成することのできる「発達の最近接領域」ー
を見通しながら、赤ちゃんが活躍できる「足場」を広げ高めるよう適切に援助することによって、
鉈を扱う能力が獲得されていったのです。
そして、この地域では鉈という道具が、
生産、衣食住、厳粛な儀式など生活のあらゆる場面で大活躍する必需の道具で、
家族や大人が頻繁に使い、大切にしている道具であることを赤ちゃんもよく知っていると記され、
そんな道具だからこそ、社会活動への意欲的な参加、大人からしてみれば遊びのようでも、
そこから始まって、使用方法や操作性が広がり、
赤ちゃんから子どもへ、少年、青年と繋がって、活動の範囲も豊かになっていく、
そんなようなことが書かれていました。
これは、この本のほんの最初の一部の内容に過ぎませんが、
私は、共感もし、とても考えさせられもしたのです。
というのは、私が子どもたちと学んでいる、と思っていることは、
どれほどの文化基盤があるものなのかな、ということを考えたからです。
また、子どもをコンゴのイトゥリの森の大人たちほどに、
注意深く見守り、彼らの関心や意欲に基づいたところに気がつけているのかな、と思い、
それも、うーーーーん、と考えずにはいられなかったからです。
今の私たちの生活の基盤になる文化って、なんだろう。
スマートフォンで、かちゃかちゃ器用にこなすこと?
ほとんどの子どもたちは、大人の見よう見まねで、そんなことはできています。
そう、コンゴのイトゥリの鉈を使う11ヶ月の赤ちゃんと同じように。
よいしょ、と座るのがやっとの赤ちゃんでも、
画面をいじって自分のお気に入りの画面を出せているのを何度も見たことがあります。
きっと、私たち大人の必需品と知って、子どもたちも使いこなせているんですね。
子どもの他の部分の発達を思うならば、
私たちが他のものに心から真剣に取り組んでいれば、子どもも真似したくなるんでしょうか。
そして、子どもの小さな関心の芽に気づき、見守る力があるのか?
なんだか、ため息の出る、読書のはじまりとなったのでした。