天気が良かったので、新しいバイクを取りに行きました。
車が壊れたときに、旦那どんはバイクのジムカーナを続けるか、少し悩んでいました。
悩むも何も、他に趣味もないんだし、やればいいじゃん、と私は思ったのですが、
毎回、私のバイクを借りるのがなんか、気が引けると。
では、この際だからジムカーナ用にバイクを買えば?と言えば
「欲しいバイクがない。」と、物欲の権化のような私と違い、お坊さまのようです。
じゃあ、私のバイクをジムカーナ用にして、
私が新しいバイクを買うわよ~、というとそれで良いと、仏さまのようなお言葉。
それでは車検もない、今、車種が揃っている250のバイクに照準を合わせて物色。
燃費がよく、自分もジムカーナをするときに使えるようにと、最大トルク重視でHONDAのCBR250に決めました。
以前、鈴鹿で乗ったときにスラロームはできたけれど、
コーススラロームで、ギア選びを間違って、エンストしてコケましたが、
練習あるのみでしょう。
ジムカーナ参戦を目標にがんばります!
今日も別の子どもさんとの安曇野プランでの算数の日でした。
いつもの「5」になる組合わせの合体消しゴムをして、
平面の絵のブロックを丸いドットのカードを引いて、同じ数のものを取る活動をしました。
平面の絵のブロックでも、丸いカードのドットのカードでも、
同じ数だよ、ということをを意識する目的もあります。
そのゲームをしているときに、4のドットが貼ってあるカードを「5!」と言ったので、
「もう一回、よく見て~」と促すと、
「わかんない!」と言いました。
もう一回、数えるなり、よく見れば「4」とわかるものなのですが、
「わからない!」といって、見ることを嫌がります。
促しながら、よく見てもらうと、
「4!」と答えてくれました。
そのときには、「あ、すぐ『わからない』という癖が出てるかな。」と思いました。
そう思ったので、「もう1回よく見て」といったのでしたが、
子どもさんと保護者が帰られて、他のこともしながら「あ、違うな。」と思いました。
この問題は、その子にとって間違わずにできた問題でした。
でも、間違ってしまった。
たぶん、うっかり見落としたか、ぱっと衝動的に言ってしまったのだと思います。
そして、私に「よく見て」と促されたと同時に、
保護者の方もほぼ同時に「よく見てごらん」と促されました。
自分でもできると思っていたことを、
「違うよ」とは言われなくても、「見てごらん」という言い方で、
もう一度、問題に取組むように、ふたりの大人に同時に言われたときに、
子どもの中では「失敗したから怒られた」という認識になって、
「わからない」という形で失敗から目をそらそうとしたのではないかな。
時間が経って、その時のことを振り返るとそんな風に思えてなりませんでした。
そう思ったのは、「5」と言ったときこっちを見ていた目が
「もう一回云々」の言葉かけのあとの視線が、パッと下に落ちて、
目がこっちを向いた瞬間「わかんない」と言ったなぁ、と思ったからです。
下に視線を落としたのは、
自分が期待した結果を出せないことへの自分自身への落胆の気持ちではないのかな、と思ったのです。
そして、もうひとつ気になったのは、
普段は学習中は私に任せていらっしゃる保護者の方の声掛けです。
おそらく、保護者の方にとっても、
「えっ!?そこ間違える!?」という問題だったから、
私と一緒に「よく見て」と声かけしてくださったのだと思います。
でも、子どもさんにも保護者のその気持ちが伝わったのではないでしょうか。
バツが悪くて「わかんない」に逃げちゃったかな~と、思ったのでした。
言葉にかくされた意味、声のトーン。
子どもはそれらが放たれた意味を的確に拾って、
ときには自分を励ます養分として、ときには自分を傷つけるものとして、
しっかり受け止めて、喜んだり、逃げ出そうとしたりしているのではないかな、
そんなことを考えた、今日の算数でした。
車が壊れたときに、旦那どんはバイクのジムカーナを続けるか、少し悩んでいました。
悩むも何も、他に趣味もないんだし、やればいいじゃん、と私は思ったのですが、
毎回、私のバイクを借りるのがなんか、気が引けると。
では、この際だからジムカーナ用にバイクを買えば?と言えば
「欲しいバイクがない。」と、物欲の権化のような私と違い、お坊さまのようです。
じゃあ、私のバイクをジムカーナ用にして、
私が新しいバイクを買うわよ~、というとそれで良いと、仏さまのようなお言葉。
それでは車検もない、今、車種が揃っている250のバイクに照準を合わせて物色。
燃費がよく、自分もジムカーナをするときに使えるようにと、最大トルク重視でHONDAのCBR250に決めました。
以前、鈴鹿で乗ったときにスラロームはできたけれど、
コーススラロームで、ギア選びを間違って、エンストしてコケましたが、
練習あるのみでしょう。
ジムカーナ参戦を目標にがんばります!
今日も別の子どもさんとの安曇野プランでの算数の日でした。
いつもの「5」になる組合わせの合体消しゴムをして、
平面の絵のブロックを丸いドットのカードを引いて、同じ数のものを取る活動をしました。
平面の絵のブロックでも、丸いカードのドットのカードでも、
同じ数だよ、ということをを意識する目的もあります。
そのゲームをしているときに、4のドットが貼ってあるカードを「5!」と言ったので、
「もう一回、よく見て~」と促すと、
「わかんない!」と言いました。
もう一回、数えるなり、よく見れば「4」とわかるものなのですが、
「わからない!」といって、見ることを嫌がります。
促しながら、よく見てもらうと、
「4!」と答えてくれました。
そのときには、「あ、すぐ『わからない』という癖が出てるかな。」と思いました。
そう思ったので、「もう1回よく見て」といったのでしたが、
子どもさんと保護者が帰られて、他のこともしながら「あ、違うな。」と思いました。
この問題は、その子にとって間違わずにできた問題でした。
でも、間違ってしまった。
たぶん、うっかり見落としたか、ぱっと衝動的に言ってしまったのだと思います。
そして、私に「よく見て」と促されたと同時に、
保護者の方もほぼ同時に「よく見てごらん」と促されました。
自分でもできると思っていたことを、
「違うよ」とは言われなくても、「見てごらん」という言い方で、
もう一度、問題に取組むように、ふたりの大人に同時に言われたときに、
子どもの中では「失敗したから怒られた」という認識になって、
「わからない」という形で失敗から目をそらそうとしたのではないかな。
時間が経って、その時のことを振り返るとそんな風に思えてなりませんでした。
そう思ったのは、「5」と言ったときこっちを見ていた目が
「もう一回云々」の言葉かけのあとの視線が、パッと下に落ちて、
目がこっちを向いた瞬間「わかんない」と言ったなぁ、と思ったからです。
下に視線を落としたのは、
自分が期待した結果を出せないことへの自分自身への落胆の気持ちではないのかな、と思ったのです。
そして、もうひとつ気になったのは、
普段は学習中は私に任せていらっしゃる保護者の方の声掛けです。
おそらく、保護者の方にとっても、
「えっ!?そこ間違える!?」という問題だったから、
私と一緒に「よく見て」と声かけしてくださったのだと思います。
でも、子どもさんにも保護者のその気持ちが伝わったのではないでしょうか。
バツが悪くて「わかんない」に逃げちゃったかな~と、思ったのでした。
言葉にかくされた意味、声のトーン。
子どもはそれらが放たれた意味を的確に拾って、
ときには自分を励ます養分として、ときには自分を傷つけるものとして、
しっかり受け止めて、喜んだり、逃げ出そうとしたりしているのではないかな、
そんなことを考えた、今日の算数でした。