なぜヒトだけが氷河期を生き延びたのか?~道具の起源はアイデアの宝庫(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース
なぜ法隆寺は重厚なのか?
日本の建築様式は15世紀 室町時代を境に大きく変容しました。「力強い重厚さ」から「繊細な様式美」へと。重厚さの代表が7世紀創建の法隆寺であり、繊細さの極致が17世紀造営の桂離宮(書院造り)でしょう。
この大きな変化を後押ししたのは、実は中世における、建築資源の枯渇と技術的進歩でした。
法隆寺で使われる部材はみな、とても太くて厚いものです。扉の中で最大である金堂正面の扉は当初、高さ3m、幅1m、厚さ10cmのヒノキの1枚板でした。重さは百数十kgになります。
表面は柱と同様、ヤリカンナ(穂先が曲がった槍のような形の道具)で少しずつ削り取るように加工してあり、それらが建物自体の重厚さを生んでいるわけなのですが、これは同時に、とてつもない資源と労力の無駄ともいえます。
ではなぜそんな大きく分厚い部材を使っていたのでしょう。それは、「製材技術」の未熟さゆえでした。
当時はまだ大きなノコギリがなく、大きな板状のものを作には「割って削る」しか方法がありませんでした。それでは薄い板はとても作れません。「大ノコギリ」という道具が15世紀初頭に使われて初めて、大きな薄い板、が作れるようになったのです。
大ノコギリと平カンナが木目の美しさの追究を生んだ
当時すでに、大きくて丈夫で、しかもきれいに割りやすい木材(要は樹齢1000年超のヒノキ)資源は、あらかた使い果たされてしまっていました(*1)。そのためこの新技術は一気に採用され広まりました。
薄い板に仕上げて組み合わせた方が、扉を作るにせよ何にせよ、圧倒的に省資源です。その上、うまく組み合わせることで反りや歪みも防げます。
またさらには表面を仕上げるための平カンナ(鉋)が登場し、素材(特に木目)の美しさ(を見せる技術)を追究する方向が加速します。そしてそれらが遂には桂の離宮へとつながりました。
道具の進化が建築や資源、そして美意識の在り方をも変えたのです。
(以下略)