福島第一原発の炉心融解を東京電力が認めた。果たしてこういうことは認めることなのか。認めると表現するのは、認めないような態度を取ってきたからだろう。本当はかなりの確率で融解していると考えていたと推測する。
この経緯を見ていると癌の告知がタブーだった30年前を思い出す。医者は胃透視の検査をして胃癌を強く疑い、殆ど確信しているのに、胃潰瘍のようですが組織を取って確認しましょうと胃内視鏡検査を患者に勧める。「胃カメラ!、つらい検査って聞いていますが」。「いや、ちょっと飲み込む時つらいかもしれませんが15分くらいで終わります。みなさんお飲みになっていますよ」。などと逃げ腰の患者さんをなだめすかして検査を受けてもらう。癌細胞が出ても、ちょっと治りの悪そうなあるいは大きく深い潰瘍なので手術しましょうと、核心には触れず説明して物事を進めていく。経過がはかばかしくなく、患者さんはなんだかどうも悪い病気だったらしいと気付きながら?、終に口にされないで過ぎてしまった例は数多かったと思う。
癌と炉心融解を比べるのを不謹慎と思われる方がおられるかもしれないが、日本人が最悪の事態に対する時に取ってきた態度として似ていると思うので書き出した。幸い癌は医学の進歩によりかなり治るようになったせいか、情報の公開が徹底してきたせいか、死生観が変化したせいか、今では殆ど告知し患者さんが主体的に治療に取り組まれるようになった。そしてそのことが予後と余生の改善に繋がっている。
炉心融解のような最悪に近い事態をあるかもしれない程度で凌いできた対応が、原発事故が起きそれが大事になった原因に結びついていると思う。責任を糾弾される時期をずらすことによって、批判を和らげようという魂胆が、熱しやすく冷めやすい情緒的な日本人社会では有効に働いてしまう。75日も経てば、こんなに重大で恐ろしい事故の責任も曖昧模糊となって人的要素が剥がれ落ち、継続して追求するのは一部の粘り強い人達だけになってしまいそうだ。どうも日本は単なる時間稼ぎの曖昧さや煙幕の周辺論議が、物事の本質核心をずらす効果を持っている国のような気がする。本当の一大事の時にはそれが対処を遅らせ間違わせているのではないかと懸念している。地震津波は天災でも原発事故は人災であることを忘れない。
写真はエディンバラのウェイバリー駅から旧市街を見上げたところ。
なるほどと思いました。
日本人の気質が言動に影響してますね。
エジンバラ、どうでした?
「スコットランドへ行ってお酒を土産に買って来ないとは...。」と、夫に言われました。(笑)