堀江溪愚。
てんからをやる人でこの名前を知らない人はいないと思えるほどこの世界での超有名人です。
残念ながら3月11日午前3時25分に逝去されました。享年67歳。
彼とは良き釣り仲間であるとともに、僕の患者さんでもあり、30年来のお付き合いをさせていただきました。
あるとき我が家に来て、僕が仕事をしているのを見ながら『管理人さんも大変だねぇ。仕事と趣味が別だから。僕なんか仕事が趣味で趣味が仕事なんだからさぁ・・・幸せな人生だよ。仕事が少しも苦にならないんだから。趣味だからね!』って言っていました。そんなノーテンキな彼ではありましたが、勿論仕事となれば面白くないことがあったことも多々伺っております。でも、そう思うことが人生を楽しくすることを知っていた彼ですから、わざとそう言っていたのではないかと思います。
曖昧なことを好まない青竹を割ったような性格ゆえ沢山の人に愛され、またそれゆえに厳しい所もありました。そしてそれが彼のテンカラにも生きて、しっかりとした彼の釣りを構築されました。彼の功績はテンカラにフライ・フィッシングを取り入れた(『アーバンテンカラ』と呼ばれていました)とか、秘密性が高いがゆえにあたかも難しく伝えられているこの釣り方を誰でもが楽しめるようにしたとか言われています。確かにそれらも彼の業績なのですが、一番の功績は各地に散在するてんからの名手を発掘し、紹介してまとめ上げたことだと思っています。彼がいなかったらきっと今のようなテンカラ界にはなっていなかったと思います。テンカラの巨匠と言われる人たちは本当にみんな仲が良いのです。
僕自身も長い間彼と交友があったので、いろいろな事があってそれらの一つ一つを上げていたら枚挙に暇がないのですが、二三のエピソードを・・・。
僕が海釣りで使う毛鉤を某オークションで落札しました。100個セットでした。で、その毛鉤が届いたらなんと500個も入っていて、しかもそれに使った鈎だけの物がまた1000本も入っていて。何かの間違いだと思った僕は出品者に連絡を取りました。そうしたら『100本セットで出したのですが、他に誰も落札がないのでよろしかったら使ってください』と。そして聞いた事には、出品者のお父様が悪い病気になって釣具店を閉じたので、そのお父様が作った商品の毛鉤が大量にあってその処分なのだそうです。そんな折、堀江氏が僕の所にいらしたのでその話をしました。『へぇ~、海の毛鉤。チョット見せてください。』ってことでこのショット(添付画像)。そしてこの写真を訳を話してその人に送っていいか?を聞きました。彼は笑いながら『良いも何も、こんな爺が役に立てるなら何枚でも送ってやってください』と。早速その出品者様にメールし画像添付をしました。そうしたら、さすがに釣具屋の店主です。堀江さんの事は雑誌などで知っていて『自分が作った鉤がこんな凄い人の所に行ったなんて・・・』と、とても喜んでくれたとのこと。出品者の方もとても喜んでくれていました。そして堀江氏にこのことを電話で告げたら『人の役に立つ事が出来て本当に良かった』と彼自身も喜んでくれました。本当に優しい人でした。
もう一つ・・・
僕が釣り堀化した渓流に見切りをつけてカジキや磯釣りに浮気していたのが原因で、彼とはしばらく疎遠になっていましたが、彼はいつも僕の事は心に留めていてくれてTTCの開業の時もお誘いを頂き、久し振りのテンカラを満喫しました。当日は氏もビニール袋を背負ったまま、午前中だけではありましたが僕の釣りに付き合ってくれました。そして上がるちょい前にある場所に定位している魚を指差して『あいつは誰がどうやっても食わないんだ』って言いながら数投して『今日も駄目だ』って。その魚は彼の毛鉤に見向きもしませんでした。
昼食の後は一人で釣らせてもらいました。そして当然ですが例の魚にロックオンしました。毛鉤を変え、誘いを変えてあの手この手で誘ったのですが、まるで水中に置かれた魚の剥製のようでした。で、最後の手段として巨大な沈み花笠をヤツの顎の下に突っ込んでそのまま上流に段差をで逆引きしてやりました。そうしたら追っかけて来てパクって。してやったりでした。その後夕方まで釣ってレストハウスに戻ると『管理人さん、どこであんな技を?・・・ビックリしましたよ。免許皆伝です。ガッハッハッハ』って。しっかり見られてました。またその後、彼の病態が気になってTTCを訪れました。朝は彼は寝ていたので一人で釣っていました。しばらくしたら背後になんとなく人の視線を感じました。気付くと遠くの岩陰から堀江氏が見てました。ニヤニヤしながら姿を出してきた彼と挨拶を交わし、体の具合を聞き『一緒にレストハウスに行って休みましょう。』って言ったらもうちょっと釣りを見せて欲しいと。僕の釣りなんか見たってしょうがないからというと。いやいや、凄いです。だから遠くから見てたのですから・・・って。堀江さんの前で振る竿は思ったようにならず、四苦八苦してたら「そんなもんですよ。一人で没頭してるときが一番いい竿操作が出来るもんです。だから取材は辛いのです。」って。でも、レストハウスに戻ってから色々と根掘り葉掘りでした。僕のようなずぼらなテンカラでも、堀江氏には不思議がいっぱいだったらしく、僕の釣りを一つ一つ検証して行きました。堀江氏ほどの名人が僕に質問をするなんて事は考えられなかったのですが、彼は解らないことがあるととことん追求するタイプでしたので、相手が誰でも関係なしです。基本的に僕のテンカラも堀江氏の指導を頂いてやっているのですから彼は僕のテンカラをお見通しだと思っていました。しかし、彼は『いやいや、そりゃースタートの指導はしましたが、いまや先生は先生の経験を通して立派な先生流を作り上げてます。そして、それがとても理に適っているのでビックリしている次第です。』ってベタ褒めしてくれました。・・・人を喜ばすことがとても上手な人でした。
もう一つ・・・。
かなり以前の話です。あるとき『先生、今度“てんからサミット・イン・名古屋’93”っていうのをやるので時間の都合が付いたら来てください。』とお誘いを頂きました。彼が言うには『凄い人を講師に招いているので講師に不足はないのですが、この人たちの凄さがわかる人って世の中にそんなに沢山はいないと思うのです。だから解る人には是非来てもらいたい。』との事でした。僕にてんからが判るはずがないことは彼が一番承知していることなので、多分講師に対する客の入りが少なかったらどうしようという彼の不安がこういう言葉になっているのだと思えました。先にも書きましたが、当時は大物釣りに傾倒していた僕ですので本来なら行かないのですが、講師陣をみると確かにそうそうたるメンバーでした。しかも堀江さんのお誘いですし、これから先テンカラで大物と格闘できる日が来るかもしれませんし、少なくともテンカラとは云々を語れるためにも一度行っておこうと思って重い腰を上げました。場所は名古屋の税理士会ビルでした。僕が住む埼玉の上尾からだと相当な距離があります。しかも知り合いは堀江さんだけですから行っても誰とも話はできないでしょう。一人ぽつんと講義に耳を傾けるだけとなることを覚悟しながら一人で新幹線に揺られました。現地に到着し、受付を済ませてウロウロしていたら『ワァ、本当に来てくれたんだぁ。』って声がして堀江さんが。『ちょっと来て』と言ってその講師たち一人づつに僕を紹介してくれました。大した釣り師ではない僕なのにとろけそうな褒め言葉を並べ立てて。でも悪い気はしませんでした。その時紹介してくれたのは天野勝利氏、石垣尚男氏、瀬畑雄三氏、竹株希朗氏、榊原正巳氏、片山悦二氏、富士正道氏、そしてフライマンの新川功氏だったように記憶しております。そしてその時に名人毛鉤なるものを頂戴しました。これは今でも大切に持っています。講師たち全員の毛鉤が小ケースに入れられていて。堀江氏の毛鉤は当時堀江氏が考案し始めていたフライの毛鉤の模倣&加工をしたものでした。僕が寂しくないように色々と気を使ってくれたので、孤独感はまったくなく、それどころが堀江氏が常に気にしてくれていたので彼の仲間のようにしていられました。こんな風に友を大切にし、しかも細かな心遣いが出来る人でした。
最後に・・・
彼の悪い病が脊髄に移転し、立てなくなって入院されたことを吉田毛鉤の吉田さんから連絡を頂きました。入院生活は山や自然が大好きだった彼にはとても苦痛な日々だったと思います。そんな中、彼が支配人をやっているTTCで『テンカラファンの集い』なるものが開催されました。主催は堀江氏の愛弟子と言っても過言ではない吉田毛鉤会の吉田さんでした。企画が上がった時は堀江氏も元気でしたので当然ながら講師として名を連ねていました。しかし、この状態では・・・歩くことさえ出来ないのですから。しかし、僕もこんな病気にはめげたくはないと思い、きっと堀江氏も同じ気持ちだと思って彼に聞いてみました『講師はどうしますか?もし来られるってのであれば僕はオブっても連れて行きますよっ』って。彼は『吉田さんの始めての主催だから是非参加して上げたい。でもこの体じゃぁ・・・』って。この返事を聞いて僕は『だったら任せてください。』と伝えて、そのことを主催者である吉田氏に打診しました。彼からの返事は一つ返事でした。それどころか全力で堀江氏を病院から連れ出す事を応援してくるとまで約束してくれました。このことを堀江氏に伝えると彼もとても喜んでくれて。で、ついでに『堀江さん、折角TTCに行かれるのですから釣りもしませんか?総ては僕がやりますから。岸辺に行って竿振りましょうよ。手は大丈夫なのでしょ?』と聞くと『無理・無理。話だけで勘弁してもらうよ』と。でも彼にとっても外に出られる数少ないチャンスです。僕もやや強引に釣りをすることを進めました。そうしたら・・・ベッドで横になったまま焦点のない目で空を見つめ『釣りかぁ・・・』と。そしてしばらくの間を持って『面倒をかけるけどお願いします。』って。しかも『で、お願いがあるのですが。』って。何かと思ったら『先生が以前僕にくれたあの逆さ毛鉤、もう一度僕のために巻いてくれないかなぁ。』って。僕は涙が出るほど嬉しかったです。そして当日に参加する予定の僕らの会の会員に助っ人を頼んだらこれまた一つ返事でした。結果、昨年末の『テンカラファンの集い』のようになりました。川に下りる階段は車椅子のまま人力で降ろして、そして釣ってもらいました。厳寒期でんもありますし、普段からベテランに虐められきった賢いニジマスが相手ですから少々時間が掛かったものの、すぐに一匹釣ってくれました。物瞬間の喜びは僕意外の誰にも解らないのではないかと思います。会員たちも『涙が出るほどでした。』と言ってくれましたが、僕は全身に鳥肌が立ちました。思わず彼の所に駆け寄って握手してしまった記憶があります。でもこれが彼の最後の釣りになってしまいました。彼もとても喜んでくれて。僕も本当に嬉しくて。。。後日彼が『あの時の魚が掛かった手の感触が今でも残っているよ』って言ってくれて。
それと同時に、僕はTTCに橋を架けました。堀江氏が入院したときにとても気にしていたからです。この橋、何度か掛けられたのですが一昨年から昨年にかけての大雨や台風で流されてしまい、そのままになっていたのです。彼の病気が良いものではないことを知っていましたので、このことに気をもんでいる彼に『僕が何とかしますから安心して・・・』って言ってしまったのが事の発端です。丸太を二本渡しただけの簡素な物ですが、丸太を岩の上に固定する難しさなど、素人の僕にはまるで無理のように思えました。しかし、釣りで鍛えた試行錯誤を繰り返す事により、何とか人が通れるまでになったので堀江氏に名前を付けてもらいました。『萬鱗小橋』です。彼はその場所で朝陽に煌く水面が魚の鱗のように綺麗だったこと。そしてここは魚が溜まる場所なので、夕刻には渓魚が跳ねて鱗がとっても綺麗だった記憶があるとのことから付けられた名前です。そしてその完成と同時に彼はこの世を去りました。僕はこの橋の完成に向けて作ってもらったネームプレートを持って病院に行きました。まさかこの日が彼が逝く前日になろうとは思いもせずに。。。病室に入ると薄目を開けて寝ていました。看護婦さんから『薬で寝ているだけなので声をかければ起きますョ』と言われ、声を掛けてみました。『堀江さん、堀江さん、僕ですよ!判る?』って。そうしたら瞼を大きく広げ、黒目が出て来て・・・たったそれだけのことなのですが、体力の残りがわずかだった彼には重労働のようで、それはもう全身全霊の力を使って僕の顔を見ようとしました。で、少しではありますが二回頷いてくれました。でもまたすぐに寝てしまいました。ネームプレートも見せたかったのですが、あんな努力しないと目が開けられない状態でしたので引いてしまいました。そして、聞こえているかどうかは判りませんが『もうあんまり頑張らなくて良いよ。もういままで充分頑張って来たじゃない。バラバラだったテンカラ界をまとめ上げた堀江さんの功績は今後もずーーと語り継がれますよ。だから・・・もういいから・・・頑張らないで』って言ってしまいました。また寝てしまったようなのでこれには無反応でした。そしてしばらくの時間、そんな堀江さんをベッドの脇に腰掛けてじっと見ていて、やはりネームプレートは見ていただきたいと思いました。ネームプレートを付けるという事は橋の完成を意味しますから、彼に少しでも安心していただけたら・・・と思ったからです。で、勇気を振り絞ってもう一度声を掛けました『堀江さん、ネームプレートが出来ましたよ。これを今日付けて完成です。これからやってきます。完成ですよ!完成!』と。そうしたら今度は顔は変えずに黒目だけが出てきて・・・またわずかに一度だけ頷いてくれて。。。分かってくれたことに満足してしまった僕は『また帰りに寄るから』と言ってTTCに行って橋架けをしてしまいました。約束通りに帰りに彼の病室に立ち寄って橋架けが終わったことを報告しましたが、もうまったく頷くこともなくただ寝ているだけになってしまっていました。
そして翌朝早く携帯が鳴りました。頭の中が真っ白になってしまって。ただただ長い間彼の身の回りのことをしてくれたTTC及びメイフライの方々、そして吉田さん率いる吉田毛鉤会の方々に対する感謝が頭の中を駆け巡るばかりでした。
今となっては、橋架けなんか後にしてずっと脇に居てあげれば良かったとの後悔に苛まれる毎日が続いております。最後の最後に脇に居て上げられなかった事の後悔は、多分僕が死ぬまで持ち続けてしまうでしょう。
それにしても3.11に逝くとは。誰もが忘れられない超派手な日です。彼らしいといえばそうなのですが、僕らテンカラ師にとっての3.11は東日本大震災の日というより堀江溪愚の命日という意味合いの方が強くなってしまうのではないかと思います。いずれにしても3.11は悲しさのMAXの日です。
先にも書きましたが、彼との交流の一つ一つを書いていたら快挙に暇がありませんのでこのくらいで割愛させて下さい。いつかの機会に少しづつでもここに掲載して行こうと思っています。
本当に惜しい人を亡くしました。まだ日が経っていないので一日に何回か彼を思い出してしまいます。そうすると決まって涙が溢れて来て。。。まだまだ悲しい日々は続くでしょうが、これだけはどうしようもありません。こういうときに効く薬は時間だけという事も理解しております。僕自身、一日も早くこの悲しい想い出たちが輝ける昔話になって皆様にお話できる日が来ることを待ち望んでいます。その日が来るまで少々の時間をいただけたらと思っています。
残念で悲しくて・・・
堀江さん、今まで色々とありがとう!僕はあなたと知り合えて本当に良かったと思っております。沢山の幸せをありがとうございました。安らかにお眠り下さい。
堀江氏の逝去の事はTTCや吉田毛鉤会のBlogでも公表はしていませんでした。なのに、先に情報を得たとばかりにあるWebで先行して公表してしまう空気が読めない人がいたことに尚更の悲しみを覚えた僕です。なぜTTCや吉田毛鉤会のBlogでの公表を控えていたのかは知る由もありませんが、こういう事は常識人ならば解ることだと思っておりました。
ここに来てTTCのHPでも吉田毛鉤会のBlogでも掲載されたのでこのBlogでも掲載させていただきます。
堀江さん、僕はあなたからは沢山の幸せを頂きました。そして堀江さんからてんからを教えて頂いた沢山の方々、そしててんからをやらずとも堀江さんに関与した方々もあなたから沢山の幸せをいただいたことと思います。ありがとう!本当にありがとう!そしてご苦労様でした。これからはゆっくりと休んでください。(合掌)
てんからをやる人でこの名前を知らない人はいないと思えるほどこの世界での超有名人です。
残念ながら3月11日午前3時25分に逝去されました。享年67歳。
彼とは良き釣り仲間であるとともに、僕の患者さんでもあり、30年来のお付き合いをさせていただきました。
あるとき我が家に来て、僕が仕事をしているのを見ながら『管理人さんも大変だねぇ。仕事と趣味が別だから。僕なんか仕事が趣味で趣味が仕事なんだからさぁ・・・幸せな人生だよ。仕事が少しも苦にならないんだから。趣味だからね!』って言っていました。そんなノーテンキな彼ではありましたが、勿論仕事となれば面白くないことがあったことも多々伺っております。でも、そう思うことが人生を楽しくすることを知っていた彼ですから、わざとそう言っていたのではないかと思います。
曖昧なことを好まない青竹を割ったような性格ゆえ沢山の人に愛され、またそれゆえに厳しい所もありました。そしてそれが彼のテンカラにも生きて、しっかりとした彼の釣りを構築されました。彼の功績はテンカラにフライ・フィッシングを取り入れた(『アーバンテンカラ』と呼ばれていました)とか、秘密性が高いがゆえにあたかも難しく伝えられているこの釣り方を誰でもが楽しめるようにしたとか言われています。確かにそれらも彼の業績なのですが、一番の功績は各地に散在するてんからの名手を発掘し、紹介してまとめ上げたことだと思っています。彼がいなかったらきっと今のようなテンカラ界にはなっていなかったと思います。テンカラの巨匠と言われる人たちは本当にみんな仲が良いのです。
僕自身も長い間彼と交友があったので、いろいろな事があってそれらの一つ一つを上げていたら枚挙に暇がないのですが、二三のエピソードを・・・。
僕が海釣りで使う毛鉤を某オークションで落札しました。100個セットでした。で、その毛鉤が届いたらなんと500個も入っていて、しかもそれに使った鈎だけの物がまた1000本も入っていて。何かの間違いだと思った僕は出品者に連絡を取りました。そうしたら『100本セットで出したのですが、他に誰も落札がないのでよろしかったら使ってください』と。そして聞いた事には、出品者のお父様が悪い病気になって釣具店を閉じたので、そのお父様が作った商品の毛鉤が大量にあってその処分なのだそうです。そんな折、堀江氏が僕の所にいらしたのでその話をしました。『へぇ~、海の毛鉤。チョット見せてください。』ってことでこのショット(添付画像)。そしてこの写真を訳を話してその人に送っていいか?を聞きました。彼は笑いながら『良いも何も、こんな爺が役に立てるなら何枚でも送ってやってください』と。早速その出品者様にメールし画像添付をしました。そうしたら、さすがに釣具屋の店主です。堀江さんの事は雑誌などで知っていて『自分が作った鉤がこんな凄い人の所に行ったなんて・・・』と、とても喜んでくれたとのこと。出品者の方もとても喜んでくれていました。そして堀江氏にこのことを電話で告げたら『人の役に立つ事が出来て本当に良かった』と彼自身も喜んでくれました。本当に優しい人でした。
もう一つ・・・
僕が釣り堀化した渓流に見切りをつけてカジキや磯釣りに浮気していたのが原因で、彼とはしばらく疎遠になっていましたが、彼はいつも僕の事は心に留めていてくれてTTCの開業の時もお誘いを頂き、久し振りのテンカラを満喫しました。当日は氏もビニール袋を背負ったまま、午前中だけではありましたが僕の釣りに付き合ってくれました。そして上がるちょい前にある場所に定位している魚を指差して『あいつは誰がどうやっても食わないんだ』って言いながら数投して『今日も駄目だ』って。その魚は彼の毛鉤に見向きもしませんでした。
昼食の後は一人で釣らせてもらいました。そして当然ですが例の魚にロックオンしました。毛鉤を変え、誘いを変えてあの手この手で誘ったのですが、まるで水中に置かれた魚の剥製のようでした。で、最後の手段として巨大な沈み花笠をヤツの顎の下に突っ込んでそのまま上流に段差をで逆引きしてやりました。そうしたら追っかけて来てパクって。してやったりでした。その後夕方まで釣ってレストハウスに戻ると『管理人さん、どこであんな技を?・・・ビックリしましたよ。免許皆伝です。ガッハッハッハ』って。しっかり見られてました。またその後、彼の病態が気になってTTCを訪れました。朝は彼は寝ていたので一人で釣っていました。しばらくしたら背後になんとなく人の視線を感じました。気付くと遠くの岩陰から堀江氏が見てました。ニヤニヤしながら姿を出してきた彼と挨拶を交わし、体の具合を聞き『一緒にレストハウスに行って休みましょう。』って言ったらもうちょっと釣りを見せて欲しいと。僕の釣りなんか見たってしょうがないからというと。いやいや、凄いです。だから遠くから見てたのですから・・・って。堀江さんの前で振る竿は思ったようにならず、四苦八苦してたら「そんなもんですよ。一人で没頭してるときが一番いい竿操作が出来るもんです。だから取材は辛いのです。」って。でも、レストハウスに戻ってから色々と根掘り葉掘りでした。僕のようなずぼらなテンカラでも、堀江氏には不思議がいっぱいだったらしく、僕の釣りを一つ一つ検証して行きました。堀江氏ほどの名人が僕に質問をするなんて事は考えられなかったのですが、彼は解らないことがあるととことん追求するタイプでしたので、相手が誰でも関係なしです。基本的に僕のテンカラも堀江氏の指導を頂いてやっているのですから彼は僕のテンカラをお見通しだと思っていました。しかし、彼は『いやいや、そりゃースタートの指導はしましたが、いまや先生は先生の経験を通して立派な先生流を作り上げてます。そして、それがとても理に適っているのでビックリしている次第です。』ってベタ褒めしてくれました。・・・人を喜ばすことがとても上手な人でした。
もう一つ・・・。
かなり以前の話です。あるとき『先生、今度“てんからサミット・イン・名古屋’93”っていうのをやるので時間の都合が付いたら来てください。』とお誘いを頂きました。彼が言うには『凄い人を講師に招いているので講師に不足はないのですが、この人たちの凄さがわかる人って世の中にそんなに沢山はいないと思うのです。だから解る人には是非来てもらいたい。』との事でした。僕にてんからが判るはずがないことは彼が一番承知していることなので、多分講師に対する客の入りが少なかったらどうしようという彼の不安がこういう言葉になっているのだと思えました。先にも書きましたが、当時は大物釣りに傾倒していた僕ですので本来なら行かないのですが、講師陣をみると確かにそうそうたるメンバーでした。しかも堀江さんのお誘いですし、これから先テンカラで大物と格闘できる日が来るかもしれませんし、少なくともテンカラとは云々を語れるためにも一度行っておこうと思って重い腰を上げました。場所は名古屋の税理士会ビルでした。僕が住む埼玉の上尾からだと相当な距離があります。しかも知り合いは堀江さんだけですから行っても誰とも話はできないでしょう。一人ぽつんと講義に耳を傾けるだけとなることを覚悟しながら一人で新幹線に揺られました。現地に到着し、受付を済ませてウロウロしていたら『ワァ、本当に来てくれたんだぁ。』って声がして堀江さんが。『ちょっと来て』と言ってその講師たち一人づつに僕を紹介してくれました。大した釣り師ではない僕なのにとろけそうな褒め言葉を並べ立てて。でも悪い気はしませんでした。その時紹介してくれたのは天野勝利氏、石垣尚男氏、瀬畑雄三氏、竹株希朗氏、榊原正巳氏、片山悦二氏、富士正道氏、そしてフライマンの新川功氏だったように記憶しております。そしてその時に名人毛鉤なるものを頂戴しました。これは今でも大切に持っています。講師たち全員の毛鉤が小ケースに入れられていて。堀江氏の毛鉤は当時堀江氏が考案し始めていたフライの毛鉤の模倣&加工をしたものでした。僕が寂しくないように色々と気を使ってくれたので、孤独感はまったくなく、それどころが堀江氏が常に気にしてくれていたので彼の仲間のようにしていられました。こんな風に友を大切にし、しかも細かな心遣いが出来る人でした。
最後に・・・
彼の悪い病が脊髄に移転し、立てなくなって入院されたことを吉田毛鉤の吉田さんから連絡を頂きました。入院生活は山や自然が大好きだった彼にはとても苦痛な日々だったと思います。そんな中、彼が支配人をやっているTTCで『テンカラファンの集い』なるものが開催されました。主催は堀江氏の愛弟子と言っても過言ではない吉田毛鉤会の吉田さんでした。企画が上がった時は堀江氏も元気でしたので当然ながら講師として名を連ねていました。しかし、この状態では・・・歩くことさえ出来ないのですから。しかし、僕もこんな病気にはめげたくはないと思い、きっと堀江氏も同じ気持ちだと思って彼に聞いてみました『講師はどうしますか?もし来られるってのであれば僕はオブっても連れて行きますよっ』って。彼は『吉田さんの始めての主催だから是非参加して上げたい。でもこの体じゃぁ・・・』って。この返事を聞いて僕は『だったら任せてください。』と伝えて、そのことを主催者である吉田氏に打診しました。彼からの返事は一つ返事でした。それどころか全力で堀江氏を病院から連れ出す事を応援してくるとまで約束してくれました。このことを堀江氏に伝えると彼もとても喜んでくれて。で、ついでに『堀江さん、折角TTCに行かれるのですから釣りもしませんか?総ては僕がやりますから。岸辺に行って竿振りましょうよ。手は大丈夫なのでしょ?』と聞くと『無理・無理。話だけで勘弁してもらうよ』と。でも彼にとっても外に出られる数少ないチャンスです。僕もやや強引に釣りをすることを進めました。そうしたら・・・ベッドで横になったまま焦点のない目で空を見つめ『釣りかぁ・・・』と。そしてしばらくの間を持って『面倒をかけるけどお願いします。』って。しかも『で、お願いがあるのですが。』って。何かと思ったら『先生が以前僕にくれたあの逆さ毛鉤、もう一度僕のために巻いてくれないかなぁ。』って。僕は涙が出るほど嬉しかったです。そして当日に参加する予定の僕らの会の会員に助っ人を頼んだらこれまた一つ返事でした。結果、昨年末の『テンカラファンの集い』のようになりました。川に下りる階段は車椅子のまま人力で降ろして、そして釣ってもらいました。厳寒期でんもありますし、普段からベテランに虐められきった賢いニジマスが相手ですから少々時間が掛かったものの、すぐに一匹釣ってくれました。物瞬間の喜びは僕意外の誰にも解らないのではないかと思います。会員たちも『涙が出るほどでした。』と言ってくれましたが、僕は全身に鳥肌が立ちました。思わず彼の所に駆け寄って握手してしまった記憶があります。でもこれが彼の最後の釣りになってしまいました。彼もとても喜んでくれて。僕も本当に嬉しくて。。。後日彼が『あの時の魚が掛かった手の感触が今でも残っているよ』って言ってくれて。
それと同時に、僕はTTCに橋を架けました。堀江氏が入院したときにとても気にしていたからです。この橋、何度か掛けられたのですが一昨年から昨年にかけての大雨や台風で流されてしまい、そのままになっていたのです。彼の病気が良いものではないことを知っていましたので、このことに気をもんでいる彼に『僕が何とかしますから安心して・・・』って言ってしまったのが事の発端です。丸太を二本渡しただけの簡素な物ですが、丸太を岩の上に固定する難しさなど、素人の僕にはまるで無理のように思えました。しかし、釣りで鍛えた試行錯誤を繰り返す事により、何とか人が通れるまでになったので堀江氏に名前を付けてもらいました。『萬鱗小橋』です。彼はその場所で朝陽に煌く水面が魚の鱗のように綺麗だったこと。そしてここは魚が溜まる場所なので、夕刻には渓魚が跳ねて鱗がとっても綺麗だった記憶があるとのことから付けられた名前です。そしてその完成と同時に彼はこの世を去りました。僕はこの橋の完成に向けて作ってもらったネームプレートを持って病院に行きました。まさかこの日が彼が逝く前日になろうとは思いもせずに。。。病室に入ると薄目を開けて寝ていました。看護婦さんから『薬で寝ているだけなので声をかければ起きますョ』と言われ、声を掛けてみました。『堀江さん、堀江さん、僕ですよ!判る?』って。そうしたら瞼を大きく広げ、黒目が出て来て・・・たったそれだけのことなのですが、体力の残りがわずかだった彼には重労働のようで、それはもう全身全霊の力を使って僕の顔を見ようとしました。で、少しではありますが二回頷いてくれました。でもまたすぐに寝てしまいました。ネームプレートも見せたかったのですが、あんな努力しないと目が開けられない状態でしたので引いてしまいました。そして、聞こえているかどうかは判りませんが『もうあんまり頑張らなくて良いよ。もういままで充分頑張って来たじゃない。バラバラだったテンカラ界をまとめ上げた堀江さんの功績は今後もずーーと語り継がれますよ。だから・・・もういいから・・・頑張らないで』って言ってしまいました。また寝てしまったようなのでこれには無反応でした。そしてしばらくの時間、そんな堀江さんをベッドの脇に腰掛けてじっと見ていて、やはりネームプレートは見ていただきたいと思いました。ネームプレートを付けるという事は橋の完成を意味しますから、彼に少しでも安心していただけたら・・・と思ったからです。で、勇気を振り絞ってもう一度声を掛けました『堀江さん、ネームプレートが出来ましたよ。これを今日付けて完成です。これからやってきます。完成ですよ!完成!』と。そうしたら今度は顔は変えずに黒目だけが出てきて・・・またわずかに一度だけ頷いてくれて。。。分かってくれたことに満足してしまった僕は『また帰りに寄るから』と言ってTTCに行って橋架けをしてしまいました。約束通りに帰りに彼の病室に立ち寄って橋架けが終わったことを報告しましたが、もうまったく頷くこともなくただ寝ているだけになってしまっていました。
そして翌朝早く携帯が鳴りました。頭の中が真っ白になってしまって。ただただ長い間彼の身の回りのことをしてくれたTTC及びメイフライの方々、そして吉田さん率いる吉田毛鉤会の方々に対する感謝が頭の中を駆け巡るばかりでした。
今となっては、橋架けなんか後にしてずっと脇に居てあげれば良かったとの後悔に苛まれる毎日が続いております。最後の最後に脇に居て上げられなかった事の後悔は、多分僕が死ぬまで持ち続けてしまうでしょう。
それにしても3.11に逝くとは。誰もが忘れられない超派手な日です。彼らしいといえばそうなのですが、僕らテンカラ師にとっての3.11は東日本大震災の日というより堀江溪愚の命日という意味合いの方が強くなってしまうのではないかと思います。いずれにしても3.11は悲しさのMAXの日です。
先にも書きましたが、彼との交流の一つ一つを書いていたら快挙に暇がありませんのでこのくらいで割愛させて下さい。いつかの機会に少しづつでもここに掲載して行こうと思っています。
本当に惜しい人を亡くしました。まだ日が経っていないので一日に何回か彼を思い出してしまいます。そうすると決まって涙が溢れて来て。。。まだまだ悲しい日々は続くでしょうが、これだけはどうしようもありません。こういうときに効く薬は時間だけという事も理解しております。僕自身、一日も早くこの悲しい想い出たちが輝ける昔話になって皆様にお話できる日が来ることを待ち望んでいます。その日が来るまで少々の時間をいただけたらと思っています。
残念で悲しくて・・・
堀江さん、今まで色々とありがとう!僕はあなたと知り合えて本当に良かったと思っております。沢山の幸せをありがとうございました。安らかにお眠り下さい。
堀江氏の逝去の事はTTCや吉田毛鉤会のBlogでも公表はしていませんでした。なのに、先に情報を得たとばかりにあるWebで先行して公表してしまう空気が読めない人がいたことに尚更の悲しみを覚えた僕です。なぜTTCや吉田毛鉤会のBlogでの公表を控えていたのかは知る由もありませんが、こういう事は常識人ならば解ることだと思っておりました。
ここに来てTTCのHPでも吉田毛鉤会のBlogでも掲載されたのでこのBlogでも掲載させていただきます。
堀江さん、僕はあなたからは沢山の幸せを頂きました。そして堀江さんからてんからを教えて頂いた沢山の方々、そしててんからをやらずとも堀江さんに関与した方々もあなたから沢山の幸せをいただいたことと思います。ありがとう!本当にありがとう!そしてご苦労様でした。これからはゆっくりと休んでください。(合掌)
もう随分以前の事ですが、僕の中ではついこないだの事のように思えています。
最後まで自分のやりたい事を貫いた姿勢は立派でしたし、その中で迎えた最期に本人も納得しているのではないかと、今になって思えて来ています。
コメントをありがとうございました。
堀江さんが亡くなった事、今このwebを見て知りました。長い間連絡を取っていなかったので、驚きました。遅まきながらご冥福お祈りいたします。