法立三回戦は、1対0で法政がサヨナラ勝ち。
三連投となった戸村くん、味方打線の援護なく、内野守備も乱れたようで、力投するも報われませんでした。
ネットで試合経過をチェックするだけでしたが、ガップリ四つの雰囲気が伝わってきました。
勝ち点を落としたとはいえ、改めて立教の戦力は侮れないと思いました。
さて先週、一冊の文庫本を読みました。
「僕は二十歳だった~戦争案内」(著者:戸井昌造、平凡社)です。
著者の戸井さんは、1923年生まれ。
早稲田大学第二高等学院(現在の学部教養課程に相当)在学中の1943年に徴兵され、1945年3月に陸軍少尉として中国に赴任。
終戦後に10ヵ月の捕虜生活を経て復員し、早稲田に復学された後は劇団あるいは画家として活動された方です。
さすがプロの画家。
本の中には、戸井さん自らが描かれたイラストが数多く挿入されています。
そのイラストの中で、私がビックリしたのは、戦時中の早稲田界隈の地図。
添付した写真から読み取れると良いのですが、早稲田から新大久保にかけての一帯は、何と陸軍の施設ばかりなのです。
例えば、現在の学習女子大辺りは近衛騎兵連隊、
早稲田の理工学部辺りは射撃場、
戸山ハイツから箱根山にかけては、陸軍幼年学校、陸軍戸山学校、陸軍病院、
海城高校から山手線を越えた辺りに陸軍技術本部・陸軍科学研究所といった具合です。
当時の早大生たちは、本部キャンパスから小銃を肩に行進を開始して、穴八幡の前を通り抜けて山手線を越え、小滝橋に近い戸山ケ原で軍事教練を受けたようです。
ちなみに1941年以降、終戦までに作成された地図では、これらの施設は全て空白になっていたといいますから、ただならぬ当時の雰囲気が漂ってきますね。
時にはユーモアを交えて軍隊生活を描写されていますが、戸井さんは、ご自身の年齢を言う時、戸籍上の年齢から三歳差し引くことにされていたそうです。
それは、従軍していた三年間を、戸井さんは人生のロスだったとお考えだったから。
本当に理不尽で虚しい日々であったそうです。
こんな時代が二度と来ないようにしたいものです。
三連投となった戸村くん、味方打線の援護なく、内野守備も乱れたようで、力投するも報われませんでした。
ネットで試合経過をチェックするだけでしたが、ガップリ四つの雰囲気が伝わってきました。
勝ち点を落としたとはいえ、改めて立教の戦力は侮れないと思いました。
さて先週、一冊の文庫本を読みました。
「僕は二十歳だった~戦争案内」(著者:戸井昌造、平凡社)です。
著者の戸井さんは、1923年生まれ。
早稲田大学第二高等学院(現在の学部教養課程に相当)在学中の1943年に徴兵され、1945年3月に陸軍少尉として中国に赴任。
終戦後に10ヵ月の捕虜生活を経て復員し、早稲田に復学された後は劇団あるいは画家として活動された方です。
さすがプロの画家。
本の中には、戸井さん自らが描かれたイラストが数多く挿入されています。
そのイラストの中で、私がビックリしたのは、戦時中の早稲田界隈の地図。
添付した写真から読み取れると良いのですが、早稲田から新大久保にかけての一帯は、何と陸軍の施設ばかりなのです。
例えば、現在の学習女子大辺りは近衛騎兵連隊、
早稲田の理工学部辺りは射撃場、
戸山ハイツから箱根山にかけては、陸軍幼年学校、陸軍戸山学校、陸軍病院、
海城高校から山手線を越えた辺りに陸軍技術本部・陸軍科学研究所といった具合です。
当時の早大生たちは、本部キャンパスから小銃を肩に行進を開始して、穴八幡の前を通り抜けて山手線を越え、小滝橋に近い戸山ケ原で軍事教練を受けたようです。
ちなみに1941年以降、終戦までに作成された地図では、これらの施設は全て空白になっていたといいますから、ただならぬ当時の雰囲気が漂ってきますね。
時にはユーモアを交えて軍隊生活を描写されていますが、戸井さんは、ご自身の年齢を言う時、戸籍上の年齢から三歳差し引くことにされていたそうです。
それは、従軍していた三年間を、戸井さんは人生のロスだったとお考えだったから。
本当に理不尽で虚しい日々であったそうです。
こんな時代が二度と来ないようにしたいものです。