大学スポーツのオールド・ファンに、最も印象に残る早慶戦を尋ねたならば、野球の「早慶六連戦」を挙げる人が多いでしょう。
しかし、もし早稲田入学前の頃の私が同じ質問を受けたならば、嵐の中の早慶レガッタと答えたのではないかと思います。
なぜならば、小学六年生の国語の授業で、このボートレースのことを習ったからです。
昭和32年(1957)の早慶レガッタのエピソードは、「あらしのボートレース」という題で、昭和36年(1961年)から昭和45年(1970年)まで、小学校六年生の国語の教科書に載り、300万人の小学生に読まれたと言われています。
まずは、皆さんも小学六年生になったつもりで、教科書の原文を読んでみてください。
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「あらしのボートレース」
昭和32年5月12日、伝統の第26回早慶ボートレースが行われました。
前夜からの雨は、まだやまず、さらに、春特有の強風に加えて、隅田川の水面には、かなり大きい波が立っていました。
この一戦に備えて、早稲田・慶応の両大学ボート部の選手たちは、長い間、はげしい練習を重ねてきましたが、試合前の予想では、慶応の勝利がほとんど確実であると見られていました。
というのは、慶応のボート部は、その前年のメルボルン・オリンピック大会にも参加しており、その時の選手の一部が、まだ残っていたからです。
しかし、この悪条件では、勝敗は、はたしてどうなるかわかりません。
慶応のかんとくは、レースに先だって、選手たちに言いました。
「みんな、全力をふりしぼってこいでくれ。この波では、ボートの中に、水がはいってくるかもしれない。しかし、ボートレースというものは、あくまでも、みんなが力をあわせてこぎぬく競争だ。もし、はいってくる水に心をうばわれて、ふだんの練習の力を出せなかったら、相手の選手に対して失礼なことだ。どんなに苦しいことがあっても、力いっぱい戦うことが、スポーツマンにとってたいせつなことなのだ」
一方、早稲田のかんとくは
「たとえ、試合には負けても、けっして、ボートをしずめてはならない。ボートをしずめることは、ボートマンにとって、もっともはずかしいことだ。きょうは、波がたいへん高い。もし、ボートに水がはいってきたら、4人でこいで、残りの4人は水を出してもいい。みんな、最後までがんばって、ボートをしずめないでくれ」
と言って、各選手に、水をくみ出す器をわたしました。
スタート直後、両国橋付近までは、予想通り、慶応が、だんぜんリードしていました。
かさをさして試合を見ていた観衆も、ほとんど、その勝利を信じていました。
ところが、蔵前橋を過ぎるころから、慶応のボートは、しだいにおくれ、早稲田が、じりじりと、差をつめ始めました。
慶応のボートには、だんだん、水がはいって、ついには、選手のこしをぬらすほどになってしまったのです。
それでも、選手たちは、誰ひとりオールを放さず、力いっぱいこぎ続けました。
しかし、ついにゴールにははいれず、ボートはしずんでしまいました。
早稲田のボートでは、水がはいってくると、何人かの選手がくみ出し係になって、はるか前方を行く慶応のボートの速さに、くちびるをかみながらも、少ない人数でこいでいました。
しかし、しん水で速力のおとろえた慶応を、駒形橋の近くで追いぬき、勝敗は逆転したのです。
ところが、岸に上がった早稲田の選手は、しんぱん長に、試合のやり直しを申し出ました。
「これは真の勝利ではない。この悪天候では、ほんとうの力は出せない」というのです。
しかし、しんぱん員の相談の結果、申し出は採用されず、早稲田の勝利と認められました。
慶応の選手たちは
「試合に対する準備が足りなかったのだから、早稲田の勝利は正しい。明らかに負けたのだ」と言って、早稲田の勝利に、心からの拍手を送りました
(引用終わり)
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沈没必至という過酷な状況に直面しても、早慶両クルーは、それぞれの信念を貫徹し、さらに両クルーが互いに好敵手への敬意を忘れませんでした。
学生スポーツの対抗戦の神髄を体現したエピソードは、日本人の魂を大きく揺さぶり、スポーツマンシップの鑑として新聞各紙で絶賛されて、ついに小学校の教科書に取り上げられるまでになったのでした。
私の小学校のクラスでも「ケイオーの戦い方は」「ワセダの判断は」等々と、かんかんがくがくと討議しました。
なお、現在の早慶レガッタは両国橋から桜橋までの三千メートル。
しかし、その当時は永代橋から向島大倉別邸前までの六千メートルという長距離で競われました。
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当時の練習は熾烈でした。
「早稲田学報」に、当時の慶応の練習ぶりが紹介されています。
慶応の選手たちは、遊びに行けないようにと、年末に全員が頭を丸坊主に刈り上げられて、元旦も相模湖で練習。
合宿所でのベッドも、ボートのシートの順番で、一番手、二番手、三番手…と並ぶ。
すなわち、普段の生活から、前後の人の身体の動きや呼吸が分かるようにするのです。
慶応に伝えられる「一艇ありて一人なし」という言葉。
エイトならば、8人で一つ。スターは要らない。
一般人には想像もできない、究極のチームワークを選手たちは求められます。
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かたや、早稲田の漕ぎ手の一人は、ほとんど漕がぬまま、レースは終わりました。
まったく疲れないまま、勝敗だけが決まる。
審判の裁定を受け入れつつも、敗者にも勝者にも、やはり「不完全燃焼」の文字はちらつきます。
あの積み重ねた猛練習への答えは、どこにいってしまったのか。
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「あらしのボートレース」のエピソードに接するたびに、私は、これが大学スポーツだと思うのです。
しかし、もし早稲田入学前の頃の私が同じ質問を受けたならば、嵐の中の早慶レガッタと答えたのではないかと思います。
なぜならば、小学六年生の国語の授業で、このボートレースのことを習ったからです。
昭和32年(1957)の早慶レガッタのエピソードは、「あらしのボートレース」という題で、昭和36年(1961年)から昭和45年(1970年)まで、小学校六年生の国語の教科書に載り、300万人の小学生に読まれたと言われています。
まずは、皆さんも小学六年生になったつもりで、教科書の原文を読んでみてください。
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「あらしのボートレース」
昭和32年5月12日、伝統の第26回早慶ボートレースが行われました。
前夜からの雨は、まだやまず、さらに、春特有の強風に加えて、隅田川の水面には、かなり大きい波が立っていました。
この一戦に備えて、早稲田・慶応の両大学ボート部の選手たちは、長い間、はげしい練習を重ねてきましたが、試合前の予想では、慶応の勝利がほとんど確実であると見られていました。
というのは、慶応のボート部は、その前年のメルボルン・オリンピック大会にも参加しており、その時の選手の一部が、まだ残っていたからです。
しかし、この悪条件では、勝敗は、はたしてどうなるかわかりません。
慶応のかんとくは、レースに先だって、選手たちに言いました。
「みんな、全力をふりしぼってこいでくれ。この波では、ボートの中に、水がはいってくるかもしれない。しかし、ボートレースというものは、あくまでも、みんなが力をあわせてこぎぬく競争だ。もし、はいってくる水に心をうばわれて、ふだんの練習の力を出せなかったら、相手の選手に対して失礼なことだ。どんなに苦しいことがあっても、力いっぱい戦うことが、スポーツマンにとってたいせつなことなのだ」
一方、早稲田のかんとくは
「たとえ、試合には負けても、けっして、ボートをしずめてはならない。ボートをしずめることは、ボートマンにとって、もっともはずかしいことだ。きょうは、波がたいへん高い。もし、ボートに水がはいってきたら、4人でこいで、残りの4人は水を出してもいい。みんな、最後までがんばって、ボートをしずめないでくれ」
と言って、各選手に、水をくみ出す器をわたしました。
スタート直後、両国橋付近までは、予想通り、慶応が、だんぜんリードしていました。
かさをさして試合を見ていた観衆も、ほとんど、その勝利を信じていました。
ところが、蔵前橋を過ぎるころから、慶応のボートは、しだいにおくれ、早稲田が、じりじりと、差をつめ始めました。
慶応のボートには、だんだん、水がはいって、ついには、選手のこしをぬらすほどになってしまったのです。
それでも、選手たちは、誰ひとりオールを放さず、力いっぱいこぎ続けました。
しかし、ついにゴールにははいれず、ボートはしずんでしまいました。
早稲田のボートでは、水がはいってくると、何人かの選手がくみ出し係になって、はるか前方を行く慶応のボートの速さに、くちびるをかみながらも、少ない人数でこいでいました。
しかし、しん水で速力のおとろえた慶応を、駒形橋の近くで追いぬき、勝敗は逆転したのです。
ところが、岸に上がった早稲田の選手は、しんぱん長に、試合のやり直しを申し出ました。
「これは真の勝利ではない。この悪天候では、ほんとうの力は出せない」というのです。
しかし、しんぱん員の相談の結果、申し出は採用されず、早稲田の勝利と認められました。
慶応の選手たちは
「試合に対する準備が足りなかったのだから、早稲田の勝利は正しい。明らかに負けたのだ」と言って、早稲田の勝利に、心からの拍手を送りました
(引用終わり)
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沈没必至という過酷な状況に直面しても、早慶両クルーは、それぞれの信念を貫徹し、さらに両クルーが互いに好敵手への敬意を忘れませんでした。
学生スポーツの対抗戦の神髄を体現したエピソードは、日本人の魂を大きく揺さぶり、スポーツマンシップの鑑として新聞各紙で絶賛されて、ついに小学校の教科書に取り上げられるまでになったのでした。
私の小学校のクラスでも「ケイオーの戦い方は」「ワセダの判断は」等々と、かんかんがくがくと討議しました。
なお、現在の早慶レガッタは両国橋から桜橋までの三千メートル。
しかし、その当時は永代橋から向島大倉別邸前までの六千メートルという長距離で競われました。
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当時の練習は熾烈でした。
「早稲田学報」に、当時の慶応の練習ぶりが紹介されています。
慶応の選手たちは、遊びに行けないようにと、年末に全員が頭を丸坊主に刈り上げられて、元旦も相模湖で練習。
合宿所でのベッドも、ボートのシートの順番で、一番手、二番手、三番手…と並ぶ。
すなわち、普段の生活から、前後の人の身体の動きや呼吸が分かるようにするのです。
慶応に伝えられる「一艇ありて一人なし」という言葉。
エイトならば、8人で一つ。スターは要らない。
一般人には想像もできない、究極のチームワークを選手たちは求められます。
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かたや、早稲田の漕ぎ手の一人は、ほとんど漕がぬまま、レースは終わりました。
まったく疲れないまま、勝敗だけが決まる。
審判の裁定を受け入れつつも、敗者にも勝者にも、やはり「不完全燃焼」の文字はちらつきます。
あの積み重ねた猛練習への答えは、どこにいってしまったのか。
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「あらしのボートレース」のエピソードに接するたびに、私は、これが大学スポーツだと思うのです。