明治安田生命とのオープン戦は、8対1で早稲田が快勝しました。

試合序盤から着実に加点する、理想的な試合運びでした。
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第二次大戦終戦時の わが家の記憶です。
昭和20年夏、私の父(大正13年生まれ)は海軍士官でしたから、所属部隊(横須賀)で玉音放送を聴きました。
父の名古屋市千種区内の実家には、旧制中学の校長を務める祖父の家族が住んでいましたが、自宅の一角は空襲は免れたそうです。
私の母(昭和2年生まれ)は、卒業した名古屋市内の女学校の助手として、在校生を引率して岐阜の郊外のお寺に泊まり込み、近くのベニヤ板工場で勤労奉仕していました。
当時、鉄鋼が極度に不足し、飛行機や特攻用舟艇などがベニヤ板で造られていたのですね。
また、靴などの日常品の配給も途絶えたため、わらじを各自 手作りして履き、 工場とお寺との行き帰りには木の実を拾って食べて空腹を紛らわすという窮乏生活だったそうです。
広島への原爆投下による惨状を伝えるニュースは、政府の報道統制にも関わらず、多くの一般市民の間を駆け巡り、大きな衝撃を与えました。
名古屋市内の実家の両親(=私の祖父母)は、周囲に爆弾が落ちていたこともあり、「次は、新型爆弾が名古屋に落ちるかも知れない。何が起こるか分からない。家族一緒に住もう。」と、各地にバラバラに疎開していた子供3人を連れ戻して、桑名に近い一軒家を借りて転居しました。
ある日、「明日の正午、重大放送がある」との貼り紙が町内の電信柱に。
同じ内容の回覧板も廻って来ました。
放送当日は、カンカン照りの猛暑日。
日本の敗戦が判明しても、母が記憶する限り、ラジオの前で誰も泣く人はいなかったそうです。
そして、その日をもってベニヤ板工場における勤労奉仕は終了し、翌日 解散。
母は家族の住む桑名の家に向かいました。
しばらくして、陸軍に召集されていた長男(明治大学OB)も無事に帰り、家族から死傷者は出ませんでした。
ちなみに母の実家は、戦前は玩具工場を営んでいましたが、戦争が激しくなると需要が減少。
代わって、ある軍需工場の経営権を譲り受けたそうですが、ほどなく終戦となってしまいました。

試合序盤から着実に加点する、理想的な試合運びでした。
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第二次大戦終戦時の わが家の記憶です。
昭和20年夏、私の父(大正13年生まれ)は海軍士官でしたから、所属部隊(横須賀)で玉音放送を聴きました。
父の名古屋市千種区内の実家には、旧制中学の校長を務める祖父の家族が住んでいましたが、自宅の一角は空襲は免れたそうです。
私の母(昭和2年生まれ)は、卒業した名古屋市内の女学校の助手として、在校生を引率して岐阜の郊外のお寺に泊まり込み、近くのベニヤ板工場で勤労奉仕していました。
当時、鉄鋼が極度に不足し、飛行機や特攻用舟艇などがベニヤ板で造られていたのですね。
また、靴などの日常品の配給も途絶えたため、わらじを各自 手作りして履き、 工場とお寺との行き帰りには木の実を拾って食べて空腹を紛らわすという窮乏生活だったそうです。
広島への原爆投下による惨状を伝えるニュースは、政府の報道統制にも関わらず、多くの一般市民の間を駆け巡り、大きな衝撃を与えました。
名古屋市内の実家の両親(=私の祖父母)は、周囲に爆弾が落ちていたこともあり、「次は、新型爆弾が名古屋に落ちるかも知れない。何が起こるか分からない。家族一緒に住もう。」と、各地にバラバラに疎開していた子供3人を連れ戻して、桑名に近い一軒家を借りて転居しました。
ある日、「明日の正午、重大放送がある」との貼り紙が町内の電信柱に。
同じ内容の回覧板も廻って来ました。
放送当日は、カンカン照りの猛暑日。
日本の敗戦が判明しても、母が記憶する限り、ラジオの前で誰も泣く人はいなかったそうです。
そして、その日をもってベニヤ板工場における勤労奉仕は終了し、翌日 解散。
母は家族の住む桑名の家に向かいました。
しばらくして、陸軍に召集されていた長男(明治大学OB)も無事に帰り、家族から死傷者は出ませんでした。
ちなみに母の実家は、戦前は玩具工場を営んでいましたが、戦争が激しくなると需要が減少。
代わって、ある軍需工場の経営権を譲り受けたそうですが、ほどなく終戦となってしまいました。