木曜日、上司から被災地へ米軍が救援物資を被災地へ届けに行くのだが、通訳を貸してほしいと言われたから行く気があるか?と聞かれました。
あまりに急な話だったので(でもこういうことは急なほどいいことですよね)初めはびっくりしましたが、引き受けました。
米軍側の通訳が今休暇中で、また今引継ぎをしているうちの会社の通訳のできるTさんもちょうど休むことになってたので、私に直に話が来ました。
正直怖いというか不安な気持ちもありました。
通訳なんて私で勤まるんだろうか、余震や放射能の危険性など考えて寝つけなかったほどです。。
しかしそんなことを怖がっていたら、現地で被災された方や救助活動をしている方々はどうなるんだろうって思います。
上司は無理することはない、君は断ることもできると言いました。
でもやっぱり私ももし自分の力で少しでも物資が届くのが早くするお手伝いができるなら、自分ができることはすべて力を貸したい。
自分だって日本人だし、軍のためというよりは日本のため、同じ東北人の方達の力になりたいとずっと思ってました。
だから移動時間が長いことや危険があることはやもえない、そんなことはなんでもないと言いました。
それからは救援物資の購入にTさんがこちらのスーパーとやり取りする一方で、私は警察と緊急車両の申請書の手配に動きました。
当日は7時半に会社に集合。
軍の車が物資を積んでうちの会社に私を迎えに来ました。
そのあと用意した申請書を持って警察に行き、無事緊急車両用のステッカーを受け取りました。
警察の署長と米軍のキャプテンが話をする場面もあり、その時通訳を頼まれてビビりましたが、幸い警察署長は少し英語ができる人だったので大した通訳もしませんでした。
その時初めて行き先が釜石市であるということを知りました。
前日に仙台近郊と聞いていたので、ちょっとびっくりしましたが、道などを警察署長と確認して8時半ごろ出発。
高速道路を使えたんで1時30分過ぎには無事釜石市内に到着できました。
市役所のそばに災害対策本部があったので、そこで物資を届けることができました。
本部では市または県の職員さんとボランティアの方たちが荷物の下しで一生懸命働いていました。
その中には外国人ボランティアの方々もいらっしゃいました。
同じ英語圏だからか米軍の方たちとその方たちが色々おしゃべりした中で、釜石で被災したある女性を盛岡市内にある彼女の会社の支店まで送ってほしいと頼まれました。
その女性はある会社から派遣され釜石の学校で英語を教えていたアメリカ人で、津波で住んでたアパートが流されてしまったそうです。
まだ公共機関が復興してないので身動きが取れないままで困っているとのこと。
ボランティアの方たちの誘導で彼らの避難所に彼女を迎えに行きました。
そこはラグビーチームの建物でした。
そこの人に聞くとボランティアを手伝ってた方々は、釜石にあるラグビーチームの選手の方々だそうです。
釜石は昔から製鉄で有名なので、その関係で市にラグビーチームがあるようです。
道理で軍人さんに負けないぐらいガタイのいい人ばっかりなわけだ。
そこにそのアメリカ人の女性も避難しているそうで彼女を引き取り、盛岡に無事送り届けました。
彼女からは移動中に、地震の30分後に釜石に津波が襲ってきた話などいろいろ聞きました。
ほんとに着の身着のまま(手持ちの荷物だけ)で逃げたので、持っていた家財道具などすべて失い、盛岡で服を買わなくちゃ、、、と言ってました。
外国で震災にあって、彼女の家族はどんなに心配しただろうと思います(どうやらアメリカのテレビ番組に両親が主演して親と連絡が前日にやっととれたと話していました)。
この後26日に帰国するそうなのですが、また復興した日本へ帰ってきてほしいと思います。
また現地で働く外国人ボランティアや自らも被災したであろう職員の方々、そして自衛隊の人たちの働きに頭が下がる思いです。
私のビビりなど大したことありませんね。
それにしても釜石市街地の被害は相当なものです。
釜石と言えば祖母の実家の大船渡市のお隣なので、よくリアス式鉄道で祖母に遊びに連れて行ってもらいました。
その思い出の街ですが、見る影もなくめちゃくちゃです。
ありえない場所にありえないものがあったり、車が変な形で変な場所に突き刺さっていたり、電線が折れてそれに車や家の家財やらが混ざって一緒くたになってぐちゃくちゃな状態で散乱している。
そのすぐそばにある津波の被害にあってない地域とのギャップがひどくって、まるで別の世界に踏み込んだかのような錯覚を覚えます。
地震とはまた違った意味で、それ以上に津波というのはすべてを飲み込み物壊すんだなぁとその破壊力に恐怖を覚えます。
壊れた家屋や何もなくなった土地で黙々とかたず家をする人々がいます。
救援物資を受け取りながら黙々と歩くお年寄りがいます。
これまで見たことがない風景でした。
さすがの米軍の人たちも言葉が見つからないぐらいびっくりしてました。
今は回復までどのくらいの時間がかかるのか全く想像もできませんが、釜石が少しでも早く元気になるようにと思います。
結局夜19時までには無事家に帰って来れました。
長い一日でしたが、少しでもお手伝いができてよかったと思ってます。
またもう少しで仕事を辞める前にこのような仕事ができてよかったと思ってます。
家族にいろいろ心配をかけたのですが、みんな人助けだからがんっばって来いと快く送り出してくれました。
あまりに急な話だったので(でもこういうことは急なほどいいことですよね)初めはびっくりしましたが、引き受けました。
米軍側の通訳が今休暇中で、また今引継ぎをしているうちの会社の通訳のできるTさんもちょうど休むことになってたので、私に直に話が来ました。
正直怖いというか不安な気持ちもありました。
通訳なんて私で勤まるんだろうか、余震や放射能の危険性など考えて寝つけなかったほどです。。
しかしそんなことを怖がっていたら、現地で被災された方や救助活動をしている方々はどうなるんだろうって思います。
上司は無理することはない、君は断ることもできると言いました。
でもやっぱり私ももし自分の力で少しでも物資が届くのが早くするお手伝いができるなら、自分ができることはすべて力を貸したい。
自分だって日本人だし、軍のためというよりは日本のため、同じ東北人の方達の力になりたいとずっと思ってました。
だから移動時間が長いことや危険があることはやもえない、そんなことはなんでもないと言いました。
それからは救援物資の購入にTさんがこちらのスーパーとやり取りする一方で、私は警察と緊急車両の申請書の手配に動きました。
当日は7時半に会社に集合。
軍の車が物資を積んでうちの会社に私を迎えに来ました。
そのあと用意した申請書を持って警察に行き、無事緊急車両用のステッカーを受け取りました。
警察の署長と米軍のキャプテンが話をする場面もあり、その時通訳を頼まれてビビりましたが、幸い警察署長は少し英語ができる人だったので大した通訳もしませんでした。
その時初めて行き先が釜石市であるということを知りました。
前日に仙台近郊と聞いていたので、ちょっとびっくりしましたが、道などを警察署長と確認して8時半ごろ出発。
高速道路を使えたんで1時30分過ぎには無事釜石市内に到着できました。
市役所のそばに災害対策本部があったので、そこで物資を届けることができました。
本部では市または県の職員さんとボランティアの方たちが荷物の下しで一生懸命働いていました。
その中には外国人ボランティアの方々もいらっしゃいました。
同じ英語圏だからか米軍の方たちとその方たちが色々おしゃべりした中で、釜石で被災したある女性を盛岡市内にある彼女の会社の支店まで送ってほしいと頼まれました。
その女性はある会社から派遣され釜石の学校で英語を教えていたアメリカ人で、津波で住んでたアパートが流されてしまったそうです。
まだ公共機関が復興してないので身動きが取れないままで困っているとのこと。
ボランティアの方たちの誘導で彼らの避難所に彼女を迎えに行きました。
そこはラグビーチームの建物でした。
そこの人に聞くとボランティアを手伝ってた方々は、釜石にあるラグビーチームの選手の方々だそうです。
釜石は昔から製鉄で有名なので、その関係で市にラグビーチームがあるようです。
道理で軍人さんに負けないぐらいガタイのいい人ばっかりなわけだ。
そこにそのアメリカ人の女性も避難しているそうで彼女を引き取り、盛岡に無事送り届けました。
彼女からは移動中に、地震の30分後に釜石に津波が襲ってきた話などいろいろ聞きました。
ほんとに着の身着のまま(手持ちの荷物だけ)で逃げたので、持っていた家財道具などすべて失い、盛岡で服を買わなくちゃ、、、と言ってました。
外国で震災にあって、彼女の家族はどんなに心配しただろうと思います(どうやらアメリカのテレビ番組に両親が主演して親と連絡が前日にやっととれたと話していました)。
この後26日に帰国するそうなのですが、また復興した日本へ帰ってきてほしいと思います。
また現地で働く外国人ボランティアや自らも被災したであろう職員の方々、そして自衛隊の人たちの働きに頭が下がる思いです。
私のビビりなど大したことありませんね。
それにしても釜石市街地の被害は相当なものです。
釜石と言えば祖母の実家の大船渡市のお隣なので、よくリアス式鉄道で祖母に遊びに連れて行ってもらいました。
その思い出の街ですが、見る影もなくめちゃくちゃです。
ありえない場所にありえないものがあったり、車が変な形で変な場所に突き刺さっていたり、電線が折れてそれに車や家の家財やらが混ざって一緒くたになってぐちゃくちゃな状態で散乱している。
そのすぐそばにある津波の被害にあってない地域とのギャップがひどくって、まるで別の世界に踏み込んだかのような錯覚を覚えます。
地震とはまた違った意味で、それ以上に津波というのはすべてを飲み込み物壊すんだなぁとその破壊力に恐怖を覚えます。
壊れた家屋や何もなくなった土地で黙々とかたず家をする人々がいます。
救援物資を受け取りながら黙々と歩くお年寄りがいます。
これまで見たことがない風景でした。
さすがの米軍の人たちも言葉が見つからないぐらいびっくりしてました。
今は回復までどのくらいの時間がかかるのか全く想像もできませんが、釜石が少しでも早く元気になるようにと思います。
結局夜19時までには無事家に帰って来れました。
長い一日でしたが、少しでもお手伝いができてよかったと思ってます。
またもう少しで仕事を辞める前にこのような仕事ができてよかったと思ってます。
家族にいろいろ心配をかけたのですが、みんな人助けだからがんっばって来いと快く送り出してくれました。