紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

小2の読書感想文!

2006-05-20 22:05:05 | 読書
 今日はKちゃんの友達2人引率で、女の子トリオと「名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌(レクイエム)」を観に行った。
 以前に観た「ベイカー街の亡霊」には拍手喝采だったので、わりかし期待大だったのだけど。でもまあ、がっかりしたり、アタマにきたり、爆睡したりすることもないからなー、まあ、普通でした。いや、正直ちょっと物足りなかったかもな。
 
 6年生ともなると、そろそろ大人(親)が煩わしい年頃になってくる。映画も子どもたちだけで行かせてあげてもいいのかも。とも思う。

 夕方図書館に行って、赤木かん子さん編の『リトルセレクション15 あなたのための小さな物語/日本語ということば』(ャvラ社)を探し出し、借り出す。

 右リンクにあるkoyateruさんの「毎日読み聞かせ」5月17日分で紹介されていた、上記の本の中の、小学2年生の女の子が書いた「セロ弾きのゴーシュ」についての読書感想文『「あまえる」ということについて』中村咲紀/著を読みたかったから。http://d.hatena.ne.jp/koyateru/20060517
koyateruさんが「てっきり中2の誤植か」と思われたほど、恐ろしく素晴らしい感想文なのだ。

 最初の1~2ページを引用。(引用は「 」部分)

「ひとりぼっちでだれにもあまえることができないゴーシュ」はいろんなマイナスの気持ちを「みんながまん」して、「じぶん一人だけでれんしゅうをはじめます。」
「でも、わたしは、ゴーシュのがまんが、一生けんめいれんしゅうする気もちにつながるとは思いません。(略)ゴーシュの心の中には、へんなものがたくさん入っています。(略)そういう変なものが心の中に入っていると、本当のじぶんがちゃあんと見えません。ゴーシュは一生けんめいれんしゅうしているつもりだけど本当の自分がちゃあんと見えていないので、本当のれんしゅうができていないのです。」

 「へんなものがたくさんはいっている心」! なんて的確な表現! 
 このあとも続々と曇りの無い目で晴れやかに見通された「セロ弾きのゴーシュ」の解析が展開されていく。

 後半は自分の幼稚園生時代の、ひとりぼっちでがまんしていた苦しかった思い出が語られる。そして、おかあさんがいっていた『ぜったいにあまえない人よりもあまえることのできる人のほうがいいと思う』という言葉を、彼女は「ちがう、ちがう」と思っていたけれど、「セロ引きのゴーシュ」を読んで津波のように「わかった!!」が作者、さきちゃんに押し寄せ、はじめて「おかあさんのいうことがわかったよ」と母親に告げるのだ。

 「おかあさんたち(=あまえていいばしょ)が木で、わたしは大きくなるためにたびをしている小とりみたいだと思いました。」そこまで読んで、よかったね、よかったね、と心の中で何度もつぶやいて、涙ぼろぼろ。

 でも面白いのが、
「ようちえん時だいとくらべると、『上でき、上でき』と思っていたのだけれど、まだまだしゅぎょうが足りないことに気がつきました。」っていう箇所。
 小学校低学年が、「まだまだ修行が足りない」って! あんまりかわいらしくて笑ってしまいました。

 しかし、小学校2年生で「がんばる」という状態を、「げんきながんばる」と「かなしいがんばる」の2種類あるってことを的確に見抜いているなんて、こわいくらい鋭い。
 だれにもあまえず「つらいのがんばってがまん」しても、それは本当のがんばりではないので、なにもかもちゃあんとみえず、ゆえに「いくらがんばっても、つらいことばかり」しかない、という明察。
 でも卒園して、はじめて父母に甘える事ができたさきちゃんは、入学してクラスメイトにも甘える事ができるようになる。それは「ともだちになってね」という言葉なんだけど。

 あまえる=心を開く事でもあるのだ、ということを、小学2年生の女の子に教えてもらった。水晶のように透き通り、ストレートで叡智に満ちた文章に心地よくノックダウン。夕飯前10分間の隙間な、でもふか~い読書タイムでした。