紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

モンゴメリによる女の友情

2007-07-16 22:33:48 | 読書
 ふたたびモンゴメリの話である。「赤毛のアン」を書いたルーシー・M・モンゴメリ。

 その「赤毛のアン」で、どうしても納得できなかったのが、アンとダイアナの友情なのだ。どうして個性的といっていいアンが、凡庸なダイアナを「腹心の友」と呼んだのだろう。他に選択肢がなかったのかもしれない。単にたまたまご縁があって、付き合う機会が多いので友としただけなのかもしれない。いつものアンの思い込みで、実際よりも過剰に友情を感じたのかもしれない。そして少なくとも私の中では、アンとダイアナが激しく仲違いした記憶がない。

 成長したアンがダイアナに幻滅するのは、ダイアナが実に凡庸な男性に夢中になっていることを打ち明けられたときだったように記憶している。もうすでにアンは上の学校に行き、利口で個性的な友だちを作った後の話なので、アンは安心してダイアナに幻滅できたのだろう。成長と言うのは、そういう残酷な一面もある。そこでやっと、私は納得した。大袈裟な言葉で装飾した友情は、いかにアンが「友だち」に飢えていたかを物語るものだったのだ。孤児で孤独だったアンが普通に「友情」を得られるようになれば、彼女がダイアナに幻滅するのは、当然のことだったのだ、と思う。

 モンゴメリのプリンス・エドワード島を舞台にしたもう一つの物語「エミリー」のシリーズでは、主人公エミリーの友だちは、ただ一人の家族の父親に、しつけられず放任されて育っているイルゼである。

 彼女はクラスメイトからは「変わり者」と呼ばれ、父親は「無神論者」と陰口を叩かれ、内心孤独で寂しいはずなのだが、からっと明るく正直でまっすぐなのだ。エミリーとイルゼは、そもそも第1印象は悪かったし、友だちになった後も、当然のように軽口を叩き合い、皮肉を混ぜた会話をし、なかなかドライなコミュニケーションをとる。お互いのプライドやガンコさやルーズさや誤解から、たびたび衝突さえする。成長後には、彼女らにとって危機的な恋愛に関する大きなアクシデントもあるが、そのときですら残酷な程に友情は継続しているのだ。それは甘くなく、しゃきっとまっすぐで、読んでいて本当に心地いい。女同士の友情でありながら、とても雄々しい気がする。
 
 対等で自分に正直でありつづけたエミリーとイルゼの骨太な友情は、彼女らの苦しい恋愛の描写に勝るとも劣らないインパクトがある。宝石のブリリアントなカッティングのように。