コップ半分の水という有名な話がある。
ある、というか、あるらしい。
物語の正規の顛末を知らんので、ちょい聞きの話しか知らん。
この話は、
コップ半分「も」水がある
コップ半分「しか」水がない
そのどちら側の人間なのかの説明をする寓話だと聞く。
キリスト教的な解釈において・・・
コップ半分「も」水があるので、それ以上多くは求めてはいけません。
それで満足するのが正しく敬虔で質素な生き方なのです。
・・・みたいに言うのを聞いたことがある。
わたしはそうは思わない。
前者は成長を放棄すべしと言っているにすぎない。
後者の欲求は成長への渇望につながる。
わたしはコップ半分「しか」水がないのほうが正しい気がする。
見方を変えれば、これはニーチェ的な解釈においての「汝成すべし」と「我欲す」の違いを的確に表現した例であろう。
能書きはこの辺にして。
それでだ。
1つだけ、実はこの解釈が全く当てはまらないものが世の中にはある事に気がついた。
なにを隠そう、おっぱいである。
どういう意味か少し考えてみるといい。
まずバスト72cmでAAカップの千早に登場いただこう。
おっぱいが72cm「も」ある
おっぱいが72cm「しか」ない
この問いは成り立つか?
成り立たない。
おっぱいが72cm「も」あるなんて言ったところで、
「それ何のヒニクですか!」
と怒らせるだけに過ぎないからだ。
おっぱいが72cm「しか」ないの1方しか成り立たないのだ。
では。
バスト91cmでFカップのあずささんにも登場いただこう。
おっぱいが91cm「も」ある
おっぱいが72cm「しか」ない
この問いは成り立つか?
これなら成り立つ。
では、これはどちらが良いのか?
そりゃ、コップにたくさん水が入っているのと同様に、おっぱいは豊かに実っているほうが良いに決まっている。
・・・きっと皆そう言うだろう。
そしてキリスト教的な解釈において・・・
おっぱいが72cm「も」あるので、そのAAカップ以上多くは求めてはいけません。
AAカップで満足するのが正しく敬虔で質素な生き方なのです。
・・・みたいにしたり顔で言うのが道徳的に正しいとされるかもしれない。
しかし!
あえて言おう。
我輩はFカップよりもAAカップのほうが好きだ!!
AAカップがかわいそうだから同情して選んだのではない。
AAカップを選んであげることが道徳的に美徳だから選んであげたのではない。
AAカップはFカップに美しさで勝る!
そう断言できるからこそ選んだのだ。
さて、ついでに伊織にも登場いただこう。
おっぱいが78cm「も」ある
おっぱいが78cm「しか」ない
これくらいのサイズなら、この問いはたぶん成り立つ。
さあ、あなたはどちらを取るか?
我輩なら、おっぱいが78cm「も」あると答える。
では、わたしは無欲で憐れみ深い出来た人物だからそう答えたのか?
もちろんNoだ。
78cmの伊織のおっぱいよりも、72cmの千早のおっぱいのほうが大好きだからだ!
水は無いよりあったほうが良いに違いない。
そう思うからおかしなことになる。
おっぱいは無いよりあったほうが良いに違いない。
極稀にそんなアタリマエな事が成り立たない人がいるのに誰も気がつかない。
眼の肥えた二次元ソムリエたる貧乳派は常識には全く捕らわれず、自由な発想で愛でることができる。
寓話の裏には、実は誰も想像もできなかったような驚愕の裏事情があったのかもしれない。
それを知らずに表面だけもってきたからこそ、いつの間にやら説教臭い話としてもてはやされるようになったかもしれないのだ。
ある、というか、あるらしい。
物語の正規の顛末を知らんので、ちょい聞きの話しか知らん。
この話は、
コップ半分「も」水がある
コップ半分「しか」水がない
そのどちら側の人間なのかの説明をする寓話だと聞く。
キリスト教的な解釈において・・・
コップ半分「も」水があるので、それ以上多くは求めてはいけません。
それで満足するのが正しく敬虔で質素な生き方なのです。
・・・みたいに言うのを聞いたことがある。
わたしはそうは思わない。
前者は成長を放棄すべしと言っているにすぎない。
後者の欲求は成長への渇望につながる。
わたしはコップ半分「しか」水がないのほうが正しい気がする。
見方を変えれば、これはニーチェ的な解釈においての「汝成すべし」と「我欲す」の違いを的確に表現した例であろう。
能書きはこの辺にして。
それでだ。
1つだけ、実はこの解釈が全く当てはまらないものが世の中にはある事に気がついた。
なにを隠そう、おっぱいである。
どういう意味か少し考えてみるといい。
まずバスト72cmでAAカップの千早に登場いただこう。
おっぱいが72cm「も」ある
おっぱいが72cm「しか」ない
この問いは成り立つか?
成り立たない。
おっぱいが72cm「も」あるなんて言ったところで、
「それ何のヒニクですか!」
と怒らせるだけに過ぎないからだ。
おっぱいが72cm「しか」ないの1方しか成り立たないのだ。
では。
バスト91cmでFカップのあずささんにも登場いただこう。
おっぱいが91cm「も」ある
おっぱいが72cm「しか」ない
この問いは成り立つか?
これなら成り立つ。
では、これはどちらが良いのか?
そりゃ、コップにたくさん水が入っているのと同様に、おっぱいは豊かに実っているほうが良いに決まっている。
・・・きっと皆そう言うだろう。
そしてキリスト教的な解釈において・・・
おっぱいが72cm「も」あるので、そのAAカップ以上多くは求めてはいけません。
AAカップで満足するのが正しく敬虔で質素な生き方なのです。
・・・みたいにしたり顔で言うのが道徳的に正しいとされるかもしれない。
しかし!
あえて言おう。
我輩はFカップよりもAAカップのほうが好きだ!!
AAカップがかわいそうだから同情して選んだのではない。
AAカップを選んであげることが道徳的に美徳だから選んであげたのではない。
AAカップはFカップに美しさで勝る!
そう断言できるからこそ選んだのだ。
さて、ついでに伊織にも登場いただこう。
おっぱいが78cm「も」ある
おっぱいが78cm「しか」ない
これくらいのサイズなら、この問いはたぶん成り立つ。
さあ、あなたはどちらを取るか?
我輩なら、おっぱいが78cm「も」あると答える。
では、わたしは無欲で憐れみ深い出来た人物だからそう答えたのか?
もちろんNoだ。
78cmの伊織のおっぱいよりも、72cmの千早のおっぱいのほうが大好きだからだ!
水は無いよりあったほうが良いに違いない。
そう思うからおかしなことになる。
おっぱいは無いよりあったほうが良いに違いない。
極稀にそんなアタリマエな事が成り立たない人がいるのに誰も気がつかない。
眼の肥えた二次元ソムリエたる貧乳派は常識には全く捕らわれず、自由な発想で愛でることができる。
寓話の裏には、実は誰も想像もできなかったような驚愕の裏事情があったのかもしれない。
それを知らずに表面だけもってきたからこそ、いつの間にやら説教臭い話としてもてはやされるようになったかもしれないのだ。