笑顔浴

優しい時間

義援

2013年11月17日 | Weblog

若いころからいくつもの奉仕集団に所属してきたのは

そこに魅力的な人がおり、人間関係も居心地がよかったからである。

自分にとってのメリットが最優先の頃、

労働奉仕はともかく なぜ経費まで? と不平不満ぶーぶーの時があって、

ある日、気づいた。

私が代金を請求すると、予算が無いので誰かのポケットマネーを貰うことになる。

私の担当作業だから責任の範疇だと、

生活費から渋々出すから負担を感じるのだ。

少額なのに、奪われてる・損している という被害者意識が強かった。

義務だと感じて苦しかった。

 

そこで、義援積立を始めてみた。

バースデイ寄付のように、幸せなイベント時に寄付するのを真似た。

私の都合を優先してくれた 助けてくれた 元気が出た

ごちそうになった お土産をいただいた 駐車場で配慮してもらった

いい気分にしてもらった、大切にしていただき、ありがたいなあ~

という感謝のコインを貯めて、基金とした。

主に手土産や、ボランティア経費に使う。

おのずと支払金額には限度があり、積立額以上は出さない。

生活費の枠外なので、ためらいなく使えるし

恩返しは嬉しさを思い出すチャンスだ。

 

さて、義援は、人として人を応援・支援するという、尊い行為である。

ところが、気持ちに余裕がなければ、頑張るほどに、しんどくなる。

立派なビジネスマンや先生、良くできた妻・夫 父・母 とても良い子が、

こころの病にかかりやすいのは

限りなく、周囲の人のために 自分を抑えて無理を続けたからではなかろうか。

或いは、周囲の人々が彼の頑張りを当然と勘違いし

感謝しないか、彼の気持ちに無関心でいるからだろう。

 

どこまでやるかのラインを引くことは大切なことで

疲れて何もやりたくない時は、しなくてもよい。

期待に添えない時は、----気持ちの良い挨拶をする---

それだけで充分だと思う。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「義」の人

2013年11月17日 | Weblog

「古い仁侠映画は、「義理」を貫き、筋を通すところに美意識があったが

広島弁で有名なブンタの「仁義なき戦い」は、自分たちの感覚に近かった。

損得勘定と、激高と復讐と、自己中心的で未成熟なキャラクターが登場した

本能で生きるって感じ。抑圧されてたものが噴出して

欲しいものなら強引に手に入れるし、気に入らない相手は容赦なく殺す。

今の若者は、映画で言うと どんな感じだろうね」と、

スーパーの店頭横の喫煙所でおじさんたちの映画談議を聞いた。

 

あれから「義」について考えてる。

五徳(仁義礼智信)の一つだけあって 簡単に実践できるものではない。

足利将軍家は名前に「義」が付く人ばかりじゃ!

ラストサムライに描かれた日本の武士道の中核に「義」があると言う人もいた。

清水の次郎長親分が登場すると、きっと、仁義ある戦いになる。

「仁」と「義」が存在すると、情け深く人の道からは決して外れない。

 

「義」の人と言えば、三国志に登場する関羽さんが有名だ。

利害を捨てて条理に従う、人として正しい行いをする、公共のために尽くす。

それを正義と呼ぶ。

古い時代の山西商人は、塩の販売の他に物資の輸送も担っていたそうで

戦争の経過で、交した契約と違う結果になっても

不平不満をこぼしたり、損した代金を求めず、各地で信頼を深めたと聞く。

信頼は、正義のレベルに比例するようだ。

 

 ボランティア活動に参加すると、仲間は「仁」と「義」の人である。

(労働)と(時間)その活動に伴う(現金)は、周囲からは見えない。

善行は、これ見よがしにするものに非ず、である。

ただ、特筆すべきは、

想定外の状況下で、更にきわだつ人がいるということ。

「これ以上は、どなたかに・・・」という人が大半を占める中で

「私がしましょう」と真心から望んで申し出る方は「仁」の強い人なのだろう。

「こうなっては仕方がない、私にお任せください」と

長い沈黙の最後に 手を挙げる方が「義」の強い人だ。

安堵の表情で皆が振りむき、感謝の声をかける。

どこに行っても、そういう人がいる。

 

私などは自己理解が進むにつれ、「仁の人」のハードルは年々高くなる。

せめて「義の人」を目指すも、まことに中途半端な人間である。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする