怒れる中年

あなたは怒ることを忘れていませんか?  ①なんで借金しなければ勉強できないの! ②働きたいのに預ける保育園が無い、えっ!

白岩義民④ 白岩城の城跡を訪ねて

2009年10月29日 | 白岩義民

 10月24~25日、寒河江市の教育委員会が中心にjなった「白岩城シンポジュウム」がありました。

 24日は討論、25日は城跡をめぐるものでした。

 子どものころ、小3から中2にかけて、新聞配達のために毎日歩いた道ですが、知らないことばかりでした。

 攻めよせる敵を防ぐための「虎口(こぐち)」、「へー、ここはそんな役割のところだったんだ!」と新鮮な驚きに。

 「郭(くるわ)」や「土塁跡」、お堀跡の石垣、直参(じきさん)の侍の屋敷跡と言われる「直屋敷」の石垣、「矢竹」(弓矢用の節の太くない笹)・・・などなど、興味しんしんでした。

    

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 これは、白岩城のお濠の跡の石垣です。

   

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 矢竹。弓矢に使えるように、節が太くない種類の竹。白岩城のまわりのあちこちに自生しています。

   

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 「化け石」。

 城の付近の山路にあり、「刀傷」と言い伝えられる傷跡の残る石。

 二つの伝説が伝えられており、一つは、美しい娘を城に召し上げようとしたが逆らったので、一刀両断に切りつけたところ、娘は石になり、刀傷が残ったのだそうな。

 もう一つは、戦のさなか、一人の侍が殿様を助けるために闘い、切られたら石になり、刀傷が残ったのだそうな。

 (『心の教育』ぬくもりの里しらいわ実行委員会刊『白岩ふるさと歴史探訪』より)

 白岩義民の歴史からは、初めの言い伝えに切迫感を感じますが、はて、真実はどうか? みなさんの眼で直に確かめていただくしかないようですね。

 

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白岩義民③ 藤沢周平著『長門守の陰謀』 に見る白岩一揆 

2009年07月29日 | 白岩義民

 人気の高い藤沢周平の小説に、白岩一揆の話が出てきます。

 このことは、旧白岩郷関係者の中でも、まだまだ一部の人にしか注目されていないようです。まして全国では、ほとんど注目されていないでしょう。藤沢周平氏自身が、白岩一揆に、どれほどの関心を持っていたかも定かではありません。

 しかし、氏の庄内酒井家をテーマとする小説の多くで、白岩一揆が背景として重要な役割を担っているのではないでしょうか。

 この『長門守の陰謀』という小編でも、長門守の次のような回想の一節があります。

 「ふん、馬鹿どもが! 

 回想はいつものように、自分を追い出した白岩の百姓たちに対する呪詛から始まる。・・・江戸に長門守を訴え、同時に国元では一揆勢数百人が城を襲う騒動となった。城方ではこの一揆勢との戦いで、家老が首を討ち取られるという醜態を演じて、天下の注目を浴びた。・・・幕府は長門守の多年にわたる失政を咎めて、領地を没収してしまった・・・」

 氏の時代小説に登場する海坂藩の藩内抗争、その黒幕のモデルがこの長門守ではないかと言われています。

 白岩一揆の因(もと)となった酒井長門守忠重の過酷なまでの政治、そして、白岩郷民の生命を捧げてまで闘わざるを得なかった苦しみの数々。これらを頭の片隅におきつつ、藤沢小説の世界を楽しまれてはいかがでしょうか。

 また一味違ってくるのではないでしょうか?

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白岩義民② 義民のお墓

2009年06月21日 | 白岩義民

 少しずつ白岩義民のことを取り上げていきたい。今回は2回目。

 あなたは、このようなお墓を見たことがありますか? 私が初めて見たとき、「死んでも迫害される、これは何なんだ!」とショックでした。

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 このふたつのお墓の上の部分を見て下さい。2本の線が入っています。囚人を示す印だそうです。白岩一揆の先頭に立った人たちの何人かを祀るお墓だそうです。

 山形県西村山郡西川町間沢の東泉時に、ひっそりとたたずんでいます。

 義民の方々は、どのような苦しみの中から立ち上がり、どのような思いで生命を懸けたのか…。そして、その親は、妻は、子は、一族は…! 私たちには想像もできない苦悩と家族愛、同志愛があったのではないでしょうか。

 私たちの祖先であり、先輩であるあなた方義民の心をまなびたい、こう思うのは私だけでしょうか。

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白岩義民① 「寛永白岩義民」 371年祭

2009年05月12日 | 白岩義民

 郷土の至宝 “白岩義民” について、少しずつ勉強していきたいと思っています。

 このまま埋もれさせてしまってはいけない、との思いからです。そして何よりも、子どものころから心のどこかに、自分たちの誇りとなっていたからです。

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 5月10日、寛永白岩義民371年祭が、鎮魂の碑が祀られている白岩誓願寺にて、しめやかに催されました。

 10人ほどの年配の女性たちの御詠歌で始まり、静かに鋭く鳴らされる御詠歌のかね(持ち鈴)、和尚様の読経・・・と続く中で、極刑に処せられた多くの義民と一揆に立ち上がらざるを得なかった白岩の農民の心に思いを巡らしたのでした。

 法要に続き、「苛斂誅求の白岩城主 酒井長門守忠重の生涯」と題して、渡辺為夫氏の講演が行われました。

 この義民祭は、白岩義民顕彰会によって毎年催されていますが、私は数年前から、できるだけ出席しています。そのたびに深く考えさせられます。祖先というか先輩というか、多くの人たちの限りない努力によって今日の自分が生きていられるのだなあと。

 “白岩義民” と言っても知らない方がほとんどでしょう。白岩でも、若い方は知らない人もいるようです。

 旧白岩郷(今の寒河江市白岩と西川町の大部分)に起こった大規模な一揆であり、渡辺為夫氏によれば、寛永10年と15年の二度の山をもつ長期の事件であったとのことです。その犠牲者は、寛永10年に10人前後の獄死や磔刑者を出し、15年には36人もの磔刑など38人におよんだと言われています。

 旧白岩郷の人々がこれほどの犠牲を払ったということは、いかに過酷な支配が行われていたかということです。

 こうしたことなどを、これから徐々に勉強していきたいと思います。

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