東京開催の決定に日本中が沸きました。異論を挟む余地のないほどに。
特に、スポーツ選手たちが招致活動の前面に出て、「やったー」と喜びを爆発させたのには正直、困りました。
あれでは、反対しようがない。
スポーツ選手たちは、それこそ善意で一生懸命だったのでしょうから。
今なお先の見えない困難に苦しんでいる3.11被災者の方々も複雑な思いだったのではないでしょうか? しかし、自分たちの思いを正直に出せる雰囲気はなかったと思います。
(1) アスリートの「一流の責任」とは?
まず、スポーツ選手たちに一言苦言を言っておきたい。
「あなた方は純粋な気持ちで東京開催を望んだのでしょうか? 私は“否”と思います。やはり自分や自分の仲間のこと、オリンピックでの栄光への夢があったと思います。はっきり言えば、そういうアスリートの気持ちをうまく利用した政治家や財界人がいるのでしょう。戦前、戦中の時もそうでした。歌手や文化人が戦争翼賛の先頭に立たされ、反対しづらい『世論』というものがつくられていったと思うのです。 『えー! いくらなんでもオリンピックと戦争を一緒にするのは酷すぎる!』と怒られるに決まっています。でも言いたいのです。スポーツ選手の中に、少数でもいいから、『オリンピックよりも3.11からの復興にみんなで頑張ろうよ』、『オリンピックはまたこの次にすればいいんだから』と言う人が出てきてほしかったのです。」
これは言いすぎでしょうか。
(2) 3.11を機に日本が変わる時、なのに元へ戻るのか?
オリンピックへの疑問の第一は「二兎を追う愚」に走っていないかということです。
新聞などにも取り上げられていますが、復興もオリンピックも、この二つが可能なのかという疑問です。
それは「東京五輪はうれしいけど、資材も人も東京が優先されて福島の復興が進むのか不安です」(朝日新聞2013/9/11)という声にも示されています。
特に危惧するのは、日本の進む道が間違った方向に向かうということです。
2020年東京五輪は、間違いなく1964年東京五輪と同様に、東京一極集中を加速させるでしょう。経済も活発化することでしょう。
しかしそれは、“表通りの日本”の活性化にすぎません。
“裏通りの日本”では、復興の遅れが避けられないでしょうし、財政悪化のために消費税などの増税がすすみ、福祉と医療が切り捨てられ、高齢者、病弱者、派遣やパートなどの非正規労働者、シングルマザー・・・など、多くの人たちの苦しみが増大することでしょう。地方はますます疲弊し、都市と農村・漁村の対立もより深刻化するでしょう。
“表通り”と“裏通り”は、ますます両極化していくのではと心配でなりません。
3.11後の日本として私が夢に見ていたのは、これらとまったく違う方向です。
3.11、特に福島原発の災厄を契機に、これまでの日本の歩んできた道を全面的に見直すことを考えていました。
これまでの高度成長一点張りの在り方を変えていくことです。
ハコモノよりもソフトを重視することです。どんなハコモノも、ソフトなしには無力でした。原発や巨大堤防がいい教訓です。巨大ダムも今や巨大なリスクとして問題になりつつあります。
農村と都市が対立しあうのではなく、助け合い、協力し合うことが始まろうとしていました。被災地への支援やボランティア活動として。
農村の再生やコメ問題の解決は、こうした都市の協力・共同があってこそ可能だと思います。
今回のオリンピック東京招致には、こうした日本再生の方向性がまったくありません。あるのは高度成長への「いつか来た道」にすぎません。
多くの政治家と財界人は、高度成長へのノスタルジアの虜となっているようです。
(3) 関東大震災の危機を無視した開催計画にびっくり
オリンピックへの疑問の第二は、関東大震災の危機を無視するのかということです。確率としては、もう目の前だというのに。
愚かにも、東京オリンピックの開催構想では東京湾沿岸部が中心になっているらしい。
国も東京都も、そしてマスコミまでもが、右手に大震災の危機を掲げながら、左手でオリンピックの沿岸部開催を称揚する、・・・・・このご都合主義には開いた口が塞がりません。
政治家も経営者も、そしてマスコミも、本当には3.11から何もまなんでいなかったということでしょうか?
日本は、今こそ、安心・安全を、ひいては人の生命こそ何ものにもかえられない宝物だという原点を確立すべきなのに、大きくハンドルを切り間違えつつあるのです。
あなたは、どう思いますか?