ぼうのぼりができなくてすぐにあきらめてしまう森少年は、あきらめっくす1号というあだ名をつけられてしまいます。
同じようにぼうのぼりができないまみやくんは、あきらめっくす2号と呼ばれています。
だめなもの同士の二人は、それをきっかけに仲良くなります。
森少年は、四年生のおねえちゃんにぼうのぼりの特訓を受けます。
担任の先生も、おねえちゃんも、ぼうのぼりをてっぺんまで登れば富士山が見える(本当は嘘なのですが)と言って、森少年を励まします。
森少年がぼうのぼりをがんばる一年間には、遠足、運動会、おとうさんからもらった千円札の紛失、おねえちゃんの交通事故、引っ越していくまみやくんとの別れなどさまざまなことがおこります。
森少年は、最後までぼうのぼりをてっぺんまでのぼることはできませんでしたが、いろいろな事件を通して成長していきます。
1975年1月初版ですから、児童文学としては森忠明の処女作ということになります。
低学年向けということもあり、ここには「君はサヨナラ族か」、「花をくわえてどこへいく」などで描いたアイデンティティの喪失は書かれていません。
むしろ、あきらめっくす1号のようなだめな子どもたちへの励ましが、後の彼の作品を知る者には驚くほど熱っぽく書かれています。
言ってみれば、「現代児童文学」の王道の成長物語といえるでしょう。
森忠明は、この作品のあとがきでこのように語っています。
「その昔、ぼくは、あきらめっくす1号よりも、すくいがたい子でした。何をやっても人並のレベルに達せず、女の子には迫害されやすく、さんたんたる日々でした。以来、ぼくにとっての学校は、恥と無念の目録をふやすための場でした。
でも、やはりぼくは、小学初級、人生芽ぐみのときを、「よかりし時代」としてふりかえってしまいます。それは木のぼりや川あそびができた最後の世代の郷愁としてではなく、ダメな子なりに、さまざまな経験を、素手で世界化しようとしていた時の必死さを、にんげんの生命力のマスター・キイだと思うからです。
そして、その原初的で健気な熱情を、真に理解し、はげまし、伸張させることが、昨今の諸状況悪化の中で、たやすく淘汰されない子を育てるための基本の手だてだと思います。
この、あきらめっくす1号の、試行と力行のものがたりが、現代の幼ごころに、あたらしい元気をそそぎこむ、ささやかな手だてのひとつになれたら、とてもうれしいのですが。(後略)」
まだ二十代半ばだった作者の、児童文学に対する若々しい意気込みが伝わってきます。
この作品では、低学年向けとしてはエピソードを詰め込みすぎている、登場人物が多すぎて混乱するなど、完成度もその後の森忠明の作品と比べると不十分なところがあります。
しかし、異常なほどの幼少時の記憶力による生き生きとしたディテール、だめな弟としっかりものの姉、大事なものとの別れ、弱者への温かい視線など、その後の森作品にとって大事なモチーフが、たくさん含まれています。
「処女作には、その作者が書きたいことがすべて含まれている」とよく言われますが、この作品もその後の森作品のスタートにふさわしいものだったのかもしれません。
同じようにぼうのぼりができないまみやくんは、あきらめっくす2号と呼ばれています。
だめなもの同士の二人は、それをきっかけに仲良くなります。
森少年は、四年生のおねえちゃんにぼうのぼりの特訓を受けます。
担任の先生も、おねえちゃんも、ぼうのぼりをてっぺんまで登れば富士山が見える(本当は嘘なのですが)と言って、森少年を励まします。
森少年がぼうのぼりをがんばる一年間には、遠足、運動会、おとうさんからもらった千円札の紛失、おねえちゃんの交通事故、引っ越していくまみやくんとの別れなどさまざまなことがおこります。
森少年は、最後までぼうのぼりをてっぺんまでのぼることはできませんでしたが、いろいろな事件を通して成長していきます。
1975年1月初版ですから、児童文学としては森忠明の処女作ということになります。
低学年向けということもあり、ここには「君はサヨナラ族か」、「花をくわえてどこへいく」などで描いたアイデンティティの喪失は書かれていません。
むしろ、あきらめっくす1号のようなだめな子どもたちへの励ましが、後の彼の作品を知る者には驚くほど熱っぽく書かれています。
言ってみれば、「現代児童文学」の王道の成長物語といえるでしょう。
森忠明は、この作品のあとがきでこのように語っています。
「その昔、ぼくは、あきらめっくす1号よりも、すくいがたい子でした。何をやっても人並のレベルに達せず、女の子には迫害されやすく、さんたんたる日々でした。以来、ぼくにとっての学校は、恥と無念の目録をふやすための場でした。
でも、やはりぼくは、小学初級、人生芽ぐみのときを、「よかりし時代」としてふりかえってしまいます。それは木のぼりや川あそびができた最後の世代の郷愁としてではなく、ダメな子なりに、さまざまな経験を、素手で世界化しようとしていた時の必死さを、にんげんの生命力のマスター・キイだと思うからです。
そして、その原初的で健気な熱情を、真に理解し、はげまし、伸張させることが、昨今の諸状況悪化の中で、たやすく淘汰されない子を育てるための基本の手だてだと思います。
この、あきらめっくす1号の、試行と力行のものがたりが、現代の幼ごころに、あたらしい元気をそそぎこむ、ささやかな手だてのひとつになれたら、とてもうれしいのですが。(後略)」
まだ二十代半ばだった作者の、児童文学に対する若々しい意気込みが伝わってきます。
この作品では、低学年向けとしてはエピソードを詰め込みすぎている、登場人物が多すぎて混乱するなど、完成度もその後の森忠明の作品と比べると不十分なところがあります。
しかし、異常なほどの幼少時の記憶力による生き生きとしたディテール、だめな弟としっかりものの姉、大事なものとの別れ、弱者への温かい視線など、その後の森作品にとって大事なモチーフが、たくさん含まれています。
「処女作には、その作者が書きたいことがすべて含まれている」とよく言われますが、この作品もその後の森作品のスタートにふさわしいものだったのかもしれません。
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