現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

神沢利子「たまご」いないいないばあや所収

2018-12-13 08:39:39 | 作品論
 生命や性(特に女性)の不思議さを描いた作品です。
 性を描いた文芸作品としては、森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」が有名ですが、この作品はより幼い原初的な性を描いています。
 特に、女性の性についてたまごになぞらえて、幼児の視点から見ている点がこの作品の独自性でしょう。

いないいないばあや (岩波少年少女の本)
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シンデレラマン

2018-12-12 16:21:29 | 映画
 1920年代から30年代に活躍した実在のボクシング選手を題材にした、2005年公開のアメリカのスポーツ伝記映画です。
 かつては世界チャンピオンにあと一歩まで迫ったものの、その後は怪我などで精彩を欠き、ライセンスも剥奪され、蓄えた財産も1929年に起こった世界恐慌のためにすべてを失い、家族のために食料の無償配布や貧困者救済のための給付まで受けていた元ボクサーが、代理出場(当時は、ライセンスがない選手でも出場させるほど、興業優先の時代だったのでしょう)をきっかけに再びチャンスをつかみ、世界チャンピオンまで上り詰めるという、「ロッキー」も真っ青なシンデレラストーリーです(シルベスター・スタローンも、少なからず影響を受けていたかもしれません(一般的には、無名ながらモハメド・アリに善戦したチャック・ウェブナーが、ロッキー・バルボアのモデルだと言われています))。
 彼の出現は、世界恐慌後の長引く不況に疲弊していたアメリカ国民を熱狂させたようです。
 コメディー的な要素もあった「ロッキー」と違って、エンターテインメントながらシリアスな雰囲気を漂わせているのは、主人公がイタリア系アメリカ人ではなくアイルランド系アメリカ人だったせいかもしれません。
 それに、「ロッキー」で主役のカップルを演じたシルベスター・スタローンとタリア・シャイアに対する、ラッセル・クローとレネー・ゼルウィガーの持ち味の違いも大きいと思われます。

シンデレラマン [DVD]
クリエーター情報なし
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マージョリー・ワインマン・シャーマット「野の花」ソフィーとガッシー いつもいっしょに所収

2018-12-12 08:40:39 | 作品論
 ソフィーとガッシーが森を散歩していると、きれいな花を見つけました。
 二匹ともその花が欲しくてたまらないのですが、互いに譲り合って結局そのままそこに残すことになりました。
 二匹が水をやりすぎたり、そばで見すぎて日陰にしたり、花瓶をかぶせたりしたので、花は元気がなくなってしまいます。
 そこで、二匹は花をそっとしておいて、時々一緒に見に行くだけにしました。
 花が元通りに元気になったので、二匹は大喜びします。
 しかし、最後のソフィーの次のセリフは、言わずもがなという感じがしました。
「すてきな物って、自分一人の物にしないで、友だちと一緒に楽しむと、もっとすてきになるのね。」
 その前までで、読者には作者が言いたいことは十分に伝わっているのですから。

ソフィーとガッシー いつもいっしょに
クリエーター情報なし
BL出版
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皿海達哉「レウエンフークの顕微鏡」なかまはずれ 町はずれ所収

2018-12-11 16:47:12 | 作品論
 1976年に出版された作品で、皿海は1972年にデビューしていますが、彼の作品世界をよく表している作品だと思います。
 ベーゴマやビー玉と並んで、50年代から60年代前半にかけて子どもの遊びの主役だったメンコの世界を、皿海は熱っぽく語っています。
 皿海は1942年生まれなので、まさに彼が子どもの時代には、メンコは遊びの王者だったのでしょう。
 私は彼より12歳年下なので、小学生のころ(60年代前半)にメンコはやりましたが、すでに遊びの主流から外れていて、わっか(チェーリング)が私の世代では全盛期の遊び道具でした。
 本が出版された70年代後半にはすでにメンコ遊びは廃れていましたので、皿海の時代設定はかなり苦しい(例えば、主人公の愛メンコはヤマウチ(50年代、60年代前半に活躍したシュート打ちの名人だったプロ野球選手の山内一弘のことです)。こうしてみると、彼の全盛期はメンコがはやった時代にぴったり重なるので、私などにはすごく説得力があります)のですが、1970年に引退していたので阪神のコーチ(これは時代的に正しいです)だと主人公に説明させているのですが、彼の熱意は十分に当時の読者には伝わっていたでしょうか。
 もうひとつの題材のレウエンフークは、作品では顕微鏡の発明者となっていますが、正しくは顕微鏡で微生物を発見した人物です(顕微鏡の発明者はオランダのヤンセン父子です)。
 しかし、この作品の歴史的価値は、そういった細かい事実の正確さとか、時代設定の正しさにあるのではなく、皿海という作者(大人)が同時代の子どもの立場に降りてきて(大人目線で見下ろすのではなく)、その姿を描こうとしたことなのです。
 そこには、六十年代の「現代児童文学」が標榜していた「変革の意志」(社会の変革や個人の成長)といった「大きな物語」ではなく、一人ひとりの子どもの論理に寄り添った形で「小さな物語」を展開(一見関係のない、メンコの世界と顕微鏡の見せる微生物の世界の間を、いかにも子どもらしい発想で自然につないでいます)しているところに、70年代(特に後半)の児童文学の新しい傾向が表れています。
 しかし、それにしても、エンターテインメントでもなく、特に社会的なテーマもない、しかも小学校高学年の男の子(創作児童文学をぜんぜん読まないので、二十年以上前に出版社にターゲットの読者対象から外されています)の世界を描いたこのような作品が本になるなんて、まさに隔世の感があります。

0点をとった日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
クリエーター情報なし
偕成社

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王様と私

2018-12-10 18:03:07 | 映画
 1956年に公開されたアメリカのミュージカル映画です。
 なにしろ60年以上前に作られた150年ぐらい前が時代設定の映画なのですから、今見ると、差別(人種や女性など)や偏見(シャム(当時のタイ)が舞台なのですが、中国や日本などアジア各地の風物がごちゃ混ぜになっています。西洋文明や白人(現地人役までメーキャップした白人が混じっています)の絶対的な優位性など)に満ちていますが、主役のユル・ブリンナー(アカデミー主演男優賞を受賞)とデボラ・カーの圧倒的な存在感(歌は吹き替えですが)、有名な二人のダンスシーンを初めとした今でも知られている数々の名曲(アカデミー作曲賞を受賞)、CGに頼らないゴージャスな衣装や美術(いずれもアカデミー賞を受賞)は、一見(一聴?)の価値があります。

王様と私 (製作60周年記念版) [Blu-ray]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後藤竜二「歌はみんなでうたう歌」

2018-12-10 09:28:33 | 作品論
 東京の多摩地区と思われる地域を舞台にして、五年三組の子どもたちと担任の教師などの群像を描いています。
 作品には明確な主人公はいなくて、父を地下鉄工事現場で亡くして片親になっているしっかり者の咲子、その母親で美容院をしているマーちゃん、クラスのボス的存在で親分と呼ばれている鉄二、パンタロンをはいてギターをかかえて学校へやってくる新卒のとも子先生、ちょっと気が弱いけれど人のいい完太、問題児で不良がかっていると描かれているデンゾーと、次々に視点を変えて彼らの生活を多面的に描こうとしています。
 メインとなる事件は、鉄二とクラスでの対抗勢力であるデンゾーとのかけベーゴマ(ひと勝負5円とか10円をかけています。文中でホンコという用語も使われていますが、本来のホンコは勝った時に相手のベーゴマを取ることなので、かけベーゴマとは異なるものです)をめぐる対立です。
 かけベーゴマでは最終的に鉄二が260円勝ったのに、逆にデンゾーから500円のショバ代を要求され、さらに割ってぎざぎざにしたコーラ瓶で脅されます。
 この件に腹を立てた鉄二がデンゾーをクラスの中で仲間外れにしようとしますが、逆にデンゾーとその子分たちにつかまって軽いリンチを受けてしまいます(両手を子分たちに押さえつけられ、デンゾーに軽くビンタされてポケットに入れていたベーゴマを奪われます)。
 クラスのみんなの前で屈辱的なリンチを受けた鉄二は、ショックのために学校をさぼり、そのことでこの事件が学級全体の問題に発展します。
 正義感の強い学級委員の多聞が中心になって、子どもたちは学級会で問題解決をはかろうとします。
 ラストシーンでは、担任のとも子先生が、鉄二とデンゾーにベーゴマ大会でみんなに指導させることを提案することで話をまとめようとしています。
 一読して、大正時代のプロレタリア児童文学の作品を読んでいるような既視感を覚えました。
 誤解を招かないように説明しておきますが、私はそれまで中産階級以上の子どもたちだけを対象としていた既成の児童文学に対して、初めて労働者階級の子どもたちのためにその姿を描いたプロレタリア児童文学(しかも権力側の弾圧の中で)に歴史的な意義を認める立場にあります。
 しかし、同じような印象を受ける作品を1973年出版(出版年度については異論があるので後で詳述します)の本に書くのは、少々時代錯誤な感じがします。
 また、担任のとも子先生が歌声サークル出身で、歌声運動の歌をみんなで歌うシーンが頻出するとなると、民青(日本民主青年同盟、日本共産党の青年組織)か、日本共産党のプロパガンダ的な作品と受け取られてもやむを得ないかなという気もします(出版社も日本共産党系の新日本出版社です)。
 とも子先生以外の教員たち(校長などの管理職も含めて)の描き方についても、疑問があります。
 とも子先生のような新卒教員は、1973年当時は日教組の猛烈なオルグ活動にさらされるのが一般的だったと思います(そのころでも、日教組の組織率は50パーセント以上でした)。
 こういった組合問題や校長などの学校管理の問題にぜんぜんふれないのは、学校を舞台に、しかも子どもたちだけでなく教師の視点も使って描いた作品としては、不自然な気がしました。
 日教組の主流派は作者と立場が違う日本社会党系でしたから、あえて組合問題に触れないのでしょう。
 でも、それであったら、作品の中で組合活動を批判的に描いても構わないのです。
 しかし、それには全く触れずに、学校教育の問題を個々の教員の個人的な資質の問題に還元して描き、校長などの管理体制にも無批判なのは気になりました。
 この作品では、組合活動や校長たち管理体制への批判の代わりに、民主的な学級運営の象徴として学級会がかなりの枚数を使って描かれています。
 しかし、これも子どもたちを恣意的に役割分担させて描いていて、教条主義的な印象を受けました。
 子どもたちの問題を学級会で解決を図ろうとする姿をもっと自然に描いた作品には、斉藤栄美の「教室」(1999年出版、翌年の課題図書に選ばれています)があります。
「教室」の学級会では、子どもたちはもっと生身の言葉をぶつけ合い、担任の教師も攻撃にさらされます。
 だからこそ、子どもたちは、そして教師も、お互いにわかり合うきっかけになるのでないでしょうか(「教室」では安易な解決は提示されません)
 それに比較すると、「歌はみんなでうたう歌」は、学級会がいかにも大団円的に描かれていて、子どもたちの言葉が読者の心に響いてきません。
 最後に、発行年度と同時代性について述べます。
 奥付の上部には「新日本出版社 1973」と書かれているのですが、なぜか「1971年5月30日第一刷発行」とも書かれています。
 そのため、作者の作品リストには混乱が見られます。
 「日本児童文学2011年1・2月号追悼 後藤竜二」の作品リストでは、1971年5月になっていますが、「思いをことばに 後藤竜二さんの言葉を伝える会」の作品リストでは1973年になっています。
 私は後者が正しいと思っています。
 なぜなら、作品中に鉄二が山本リンダの「どうにもとまらない」を口ずさむシーンがあるのですが、この歌は1972年6月のリリースだからです。
 出版年度にこだわったのは、当時の作者の作品が同時代性に固執していて、その当時の最新の風俗をわざと作品に取り入れているからです。
 それは、作者が発表時の子どもたちと同じ時代に生きているんだという共感を示すために意識的に行っていることだと、私は好意的にとらえています。
 しかし、この作品ではその同時代性についてもやや違和感があります。
 描かれている子どもたちの風俗が、1973年としては古すぎる感じがします。
 まず、重要なアイテムとして描かれているベーゴマです。
 私は1964年にこの作品が描かれている子どもたちと同じ五年生でしたが、その当時でもベーゴマは子どもの遊び道具の主力アイテムの座を、少なくとも私の住んでいた東京の下町では失いかけていました。
 この作品には出てきませんが、ビー玉も同様で私より年長の子どもたちの遊び道具でした。
 代わりに、私たちの世代ではチェーリング(わっかとも呼ばれていて、カラフルなプラスチックのリングで、ベーゴマと同様にホンコの場合は勝った負けたでやり取りされていました)が全盛でした。
 私たちの世代では、メンコはまだ生き残っていましたが、それも次第に廃れていきました。
 特に、ラストシーンのとも子先生の、学校でのベーゴマ大会の提案にはしらけてしまいます。
 ホンコやかけで一度でもこういった勝負をしたことのある子どもたちならば、ウソンコ(勝っても負けてもベーゴマやお金を実際にやり取りしない)の勝負などまったく面白くなくやる気がでないことを、後藤は知らないようです。
 後藤は学生時代にけっこうかけマージャンをやったようなので、金をかけないマージャンほどつまらないものはないことは良く知っているはずです。
 なぜ子どもは違うと考えてしまうのか、大きな疑問です。
 この作者もまた、古い童心主義の名残りを引きずっていたのでしょうか。
 そういえば、後藤のデビュー作の「天使で大地はいっぱいだ」というタイトルも、よく考えてみるとかなり恥ずかしい感じですが。
 また、路地でのゴムボールでの野球のシーンも出てきますが、私の世代では良く行われていましたが、1970年代に入るとやっている子どもたちはほとんど見かけなくなりました。
 いわゆるガキ大将的なクラスのボスの存在も、私たちの世代ではまだかろうじて生き残っていましたが、70年代の子ども像としては疑問です。
 もちろん子どもたちの風俗史には地域差があるでしょうが、全体的な印象では十年ぐらい古い風俗のように思われます。
 どうもこの作品で描かれた子どもたちは、実際に取材されたものではなく、作者の少年時代の体験や人や本などから得た知識に頼って描かれたような気がしてなりません。
 そういう意味でも、作者が1960年代半ばの学生時代に書いていたと思われる左翼よりの観念的な児童文学の名残りが、この作品には強く感じられます。
 そのような書き方を全面的に否定するものではありませんが、一方で作者が「同時代性」にこだわっているようなので、きちんと取材してもっと徹底してもらいたかったと思いました。

歌はみんなでうたう歌 (新日本創作少年少女文学)
クリエーター情報なし
新日本出版社





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵐山光三郎「漂流怪人・きだみのる」

2018-12-09 17:11:05 | 参考文献
 戦後の一時期に人気作家であった「きだみのる」の最晩年(75歳から亡くなる80歳まで)に、編集者として取材旅行にも同行した著者が書いた評伝です。
 著者が出会った時、「きだみのる」は幼い娘(7歳)と国内外を放浪している時期で、その未就学児の娘も取材旅行に同行しています。
 社会学者、翻訳家、人気作家、アナキスト(?)であった「きだ・みのる」の人生も驚異的ですが、その娘と彼女を引き取って「きだみのる」との内幕をネタにして直木賞作家(!)や教育評論家としてのし上がった三好京三との確執もすさまじいものがあります。
 しかし、一番驚いたのは、四十年以上も昔の話を、昨日の話のように生き生きと再現させてみせる、著者の驚異的な記憶力(ある程度はメモは取ってあったのでしょうが)と若々しい文体(この本が出たとき73歳です)です。
 他の記事にも書きましたが、児童文学作家として一番重要な資質は、この子どものころを鮮明に再現できる記憶力と文体なのです。
 年を取るにつれて若いころのことを忘れたような作品を書く作家が多い中で、この作品と作者には大いに励まされました。

漂流怪人・きだみのる
クリエーター情報なし
小学館
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村中李衣「りんごさん」かむはさむにだ所収

2018-12-08 08:46:23 | 作品論
 中学一年生のまり子は、両親ともうすぐお嫁に行く七つ年上のねえちゃん、そしてばあちゃんと暮らしています。
「泣きびそまり子」と呼ばれていたまり子を、たくましいばあちゃんはいつも励ましてくれていました。
 まり子が小学四年生の時に、ばあちゃんはころんでひざを痛め、それを契機に急速に弱っていきます。
 今では、ばあちゃんはトイレにも一人で行かれず、ねえちゃんが手を引いて連れて行きます。
 ねえちゃんがいない時には、ばあちゃんはおまるを使わなくてはなりません。
 ばあちゃんはおまるを使うのが泣くほど嫌なのですが、まり子はばあちゃんが元気でたのもしくないのが受け入れられず、どうしてもばあちゃんをトイレへ連れて行く勇気が出ません。
 そのため、ねえちゃんがお嫁に行ったら、ばあちゃんはいつもおまるを使わなければならなくなります。
 ねえちゃんの結婚式の打ち合わせの日に、ばあちゃんはみんなに迷惑をかけないようにおまるを隠して、水分をとらないようにしています。
 それに気づいたまり子は、とうとう勇気を出してばあちゃんをトイレに連れて行こうとします。
 ばあちゃんの意外な重さになかなか前へ進めないまり子に、ねえちゃんが声援をおくります。
 その声に励まされて、まり子はなんとかばあちゃんをトイレまで連れていくことができます。
 1983年7月発行で1984年に日本児童文学者協会の新人賞受賞した短編集「かむさはむにだ」の巻頭の短編です。
 苦しい戦争の時期をたくましく生き抜いたばあちゃんの生き方を、ねえちゃん、そしてまり子がこれからも引き継いでいくことを、短い枚数の中で見事に描いてます。
 理性的で簡潔な文章が、作品が感傷に流されるのを防いで、庶民の生きるたくましさを表すことに成功しています。
 この作品には特に目新しい現代的なテーマはありませんが、より普遍的な人間が生き抜く力を表現して、読者に生きる勇気を与えてくれています。
 1980年代に入ってからの狭義の「現代日本児童文学」(定義などは他の記事を参照してください)の行き詰まりを打開する一つの方向性を、この作品は示したと思います。


かむさはむにだ (偕成社の創作 (18))
クリエーター情報なし
偕成社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史ファンタジーにおける注意点

2018-12-07 11:21:29 | 考察
 歴史物を書く上でもっとも注意しなければならないのは、その時代や地域の雰囲気です。
 例えば、江戸時代を描くのならば江戸時代らしさ、京都を舞台にするならば京都らしさを出さなければなりません。
 江戸時代の風物を出したり、当時の京都言葉を使うなどして、舞台の雰囲気を出すことが重要です。
 また、安易なファンタジー手法を歴史物で使うのも要注意です。
 例えば、けっきょく「ファンタジー部分は夢でした」という形などで終わるなどは、一番やってはいけない手法だと思います。
 

ゲームシナリオのためのファンタジー事典 知っておきたい歴史・文化・お約束110 (NEXT CREATOR)
クリエーター情報なし
ソフトバンククリエイティブ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八木こずえ「新種うつ病の様相と看護アプローチ」うつ病論 双極Ⅱ型障害とその周辺所収

2018-12-06 14:11:20 | 参考文献
 双極Ⅱ型障害などの新しいうつ病に対する、看護アプローチについてまとめた論文です。
 全体的に、新しいうつ病に対しても、患者及び家族の自己責任を問う姿勢が感じられて、これらが社会のひずみによって起こされている公害だという視点に欠けているのが気になりました。
 もちろん看護というのはこうした新しい気分障害をマクロに扱うのではなく、患者一人一人をミクロにケアしなければならないのだということは理解できます。
 しかし、陰で看護師たちが、旧来のメランコリー型の単極うつ病を「ピュアうつ」と呼び、新種の気分障害を「気ままうつ」、「不思議うつ」、「ファッションうつ」と揶揄していると書かれているのには、衝撃を受けました。
 確かに、メランコリー型うつの治療法と看護法はすでに確立されていて、「薬物療法と十分な休息」によってかなりの確率で予後がいいので、看護師の立場では扱いやすいでしょう。
 また、入院や通院している間の患者は、彼らを取り巻いている社会状況から一時隔離されているわけですから、看護師からはそれらが見えにくいのも事実です。
 しかし、そういった社会のひずみと患者の関係を理解しないと、従来のメランコリー型うつ病とは違って完全に社会に復帰させることは難しいでしょう。
 なぜなら、メランコリー型うつ病の患者の帰属する組織や社会は彼らを保護する機能を持ち合わせていますが、新しいうつ病の患者が帰属する組織や社会はすでにそれを放棄しているからです。
 そういった状況下で、看護師たちがどのように患者と向き合うかについての考察が欲しかったと思いました。

うつ病論―双極2型障害とその周辺 (メンタルヘルス・ライブラリー)
クリエーター情報なし
批評社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファンタスティックビーストと黒い魔法使いの誕生

2018-12-04 14:31:42 | 映画
「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」(その記事を参照してください)の続編です。
 ヒット映画の続編にありがちな失敗要因を、すべて完璧に兼ね備えています。
 まず、前作で観客にうけた要素(この映画では、魔法動物やCGで描いた都市(今回はパリ)など)を、スケールアップして無意味に頻出させています。
 予算に余裕が出たので、大物俳優(この映画では、ジョニー・デップとジュード・ロウ)を出演させて、彼らに華をもたせるために無意味で不必要な彼らの登場シーンが長くなっています。
 ワールドワイドのビジネスを意識して、それほど魅力的でもないアジア人や黒人の俳優の登場シーンが長くなっています。
 前作で好評だったダン・フォグラーを今回も登場させたいために、無理やり設定を変更しています(前作のラストシーンで魔法によって記憶を消されたはずなのに、「魔法が訊かなかった」(これをやっては何でもアリになってしまいます)ことにして、登場させています)。
 これからシリーズ物にして大儲けしたいのが見え見えで、話や登場人物をむやみにひろげて、きちんとした結末をつけません。
 以上のようなことに多くの時間を費やしたため、主役の二人の登場シーンが限られてしまって、肝心のストーリーが弱くなって話になりません。
 もともとCGに100%たよった魔法物なので、主人公を中心にしたストーリーがしっかりしないと、前述したように「何でもアリ」の世界になってしまって、観客はハラハラできません(それを3Dや4Dで補って、テーマパークのアトラクションのようにしているのかもしれませんが)。
 
ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅(吹替版)
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同人誌の合評会に連作短編を提出する場合の注意点

2018-12-03 08:46:56 | 考察
 児童文学の同人誌に参加していると、合評会に連作短編のうちの一編が提出されることがあります。
 第一作目ならば大きな問題はありませんが、二作目以降だとスムーズに合評が行えないことがあります。
 合評会に出席しているメンバー全員が、それまでの短編を読んでいるとは限らないからです。
 また、読んでいても、合評時期が離れていると、よく思い出せないこともあります。
 せっかく合評会に作品を出すのですから、他のメンバーから有益な批評を得るために、連作短編を出す場合には、以下のような注意が必要です。
・各短編に時間的な前後があったり、続き物のような書き方をしている場合は、すべての短編を順序通りに提出する(当たり前のようですが、けっこう守られていません)。
・できれば、すでに合評した作品のシノプシスを示す。それができないなら、それらの短編も同時に再提出する(ほとんどのメンバーは、過去の他人の作品も取っておくほど親切ではありません)。
・各作品が、それ自体独立した短編として成立していること(長編の一部のような作品を連作短編と称して提出されている場合があります)。
 最低限、以上の注意点が守られれば、より効率のよい合評会ができ、作者も有益な批評が得られることでしょう。

野口くんの勉強べや (偕成社の創作)
クリエーター情報なし
偕成社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男の子向けの児童文学

2018-12-02 09:41:53 | 考察
 児童文学がL文学化(女性作家が女性を主人公にして女性読者のために書く文学)して久しい(さらに女性編集者と女性評論家と女性研究者が加わって、今では完全に女性だけで閉じた世界になっています)ですが、その弊害は年々ひどくなっています。
 例えば、男の子の代表的な遊びは、昔も今もゲーム(現在はスマホゲームと携帯ゲーム機とトレーディングカードが主流でしょう)とスポーツ(昔は草サッカーや草野球ができましたが、現在では正式にチームに入らないと難しいでしょう)ですが、大半の女性作家はそれらの経験に乏しく、さらに女性編集者も間違いをチェックする能力はありません。
 そのため、たまに男の子を主人公にした作品が出版されても、トンチンカンな内容なものが多いです。
 もっとも、それら本の読者も女性(女の子だけでなく大人の女性も含めて)が大半なのですから、大きな問題はないのかもしれません。
 こうして、男の子が読んで楽しい児童文学作品はますます少なくなり、男の子たちはますます図鑑や伝記(戦国武将など)を除いては本を読まなくなっていきます。
 それが、さらに男の子向けの児童文学が出版されなくなるという、負のスパイラルを生み出していきます。
 ある飲み会で、「本を読まない男の子のためにわざわざ出版したりしない」と豪語していたベテラン女性編集者の言葉に驚愕したのはもう十年以上前のことですが、今では状況はさらに悪化しています。
 私の職業的な専門分野であったマーケティングの考え方では、「本を読まない男の子たち」こそ、児童文学に残された数少ないフロンティアであり、新しいビジネスチャンスのはずなのですが、あいにく児童文学業界にはマーケティングセンスのある人材は皆無のようです。

エーミールと探偵たち (岩波少年文庫 (018))
クリエーター情報なし
岩波書店
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする