現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

新しい児童文学同人誌のあり方

2018-12-27 09:08:14 | 考察
 かつて1950年代から1960年代にかけての「現代児童文学」の出発期においては、児童文学同人誌の多くは一種の文学運動体で、新しい児童文学を確立するために大きな働きをしました。
 その後、児童文学がビジネスとして成立するようになり、多くの既成作家がその中に取り込まれたとき、商業主義による児童文学の沈滞化を憂えた有志により、いくつかの同人誌が1980年代前半に「新しい児童文学を拓く」ために旗揚げしたことは別の記事で紹介しました。
 しかし、それらの活動もさらに深く商業主義に取り込まれ、児童文学同人誌活動が変質したこともその記事でも述べました。
 児童文学同人誌は、もはや新しい児童文学を開拓しようという運動体ではありません。
 すでに商業出版をしている旧人とこれから商業出版を目指す新人とに二極化していて、旧人にとっては依頼原稿あるいはこれから本にしようと思っている作品のブラッシュアップの場であり、新人にとっては創作教室の役割をはたしています。
 そして、そこには奇妙なギブアンドテイクの関係が生まれていて、一種の調和が取れています。
 こういった現状を認めた上で、その範囲でより良いものにするためには、最低限の暗黙の約束事が必要な気がします。
 まず、合評会に提出する作品は、少なくともその時点ではその書き手のベストの物を出すべきでしょう。
 作品の巧拙を言っているのではありません。
 どんなに拙い作品でも、その書き手が最大限の努力をしたものならば、合評する側でも全力をあげて評するべきでしょう。
 ところが、月例会の作品締切日が来て、「作品を例会に出さないともったいない」という意識で出されている作品も散見されます。
 中には、誤字脱字やワープロの変換ミスがそのままになっている原稿すらあります。
 完成原稿を、本人が読み直して推敲していないのでしょう。
 こういった時は、潔くその月の原稿提出は見送り、次の月にもっと完成度をあげて提出するべきだと思います。
 また、旧人が依頼原稿のブラッシュアップのために作品を出す場合は、合評で指摘された点を反映できるように、依頼原稿の納期までに十分な時間を取るべきです。
 それから、自分の作品がない場合は、例会を欠席する会員も見受けられます。
 また、他人の作品の時は、自分から積極的に発言しない人もいます。
 自分の作品を合評してもらうのと他の人の作品を評するのは、ギブアンドテイクの関係なのですから、こういった態度は現在の同人誌においてもマナー違反だと思います。
 最後に、少数の方向性を同じくするメンバーで構成される文学運動体でなくなった以上は、新しいメンバーの参加にもっとオープンであるべきです。
 現在のメンバーが既得権にしがみついてメンバーが固定化すれば、作品や合評の内容もマンネリ化して、同人誌活動は質的に低下するでしょう。
 どんどん新しい血を入れて、ついていけないメンバーは淘汰されるようにしなければ、活動を活性化することはできないでしょう。
 以上のようなことを復帰直後に思ったのですが、しだいにもっと寛容でもいいかなとも思ってきました。
 完成度の低い作品が提出されても、合評で自分から発言しない人がいても、それはそれとして許容し、多様な関わり方をする多くの人を受け入れれいくのも、これからの同人誌のひとつのあり方なのかもしれません。
 そのためには、自ら合評会の司会を引き受けて、合評会全体を時間配分も含めてうまくコントロールして、会員のいろいろなレベルのニーズを満たすよう努力すればいいのだと思っています。

三振をした日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
クリエーター情報なし
偕成社
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