「ウイスキー」の銘柄ではない。
一体、この世に何の為に生まれて来たのか?
ある者は、仕事辞める度に労働基準監督署に、つまらぬ事で勤めていた会社を密告する。
アルバイトでさえそうだ。
こういう人物達は一生、それを糧に惨めな人生を正当化して生きて行くのだろう。
この歪んだ正義感は今の世の中に、弱きものが持ち得る唯一の手段として散見されるが、弱きものが満足する為には、結局は相対的に強くならなければいけない。
或いは、その試合自体を放棄して自分独自のルールで生きてゆくか。この二つ。
今、正義の為の【暴力】は限度なく許される時代になった。
別に日本ナショナリズムの嵐が来てる訳でもない。これが時代なのだ。
年末に幾人かが、日本に帰って来て会ったっr。
そして、また次の赴任地に旅立つ。
コロナは仕事には全く関係ない。
この中旬から、甥はアイルランド、ロンドン、イタリアに仕事旅に出る。
先日の私のトルコの仕事はしくじった。
しくじったから、次のステップを踏んで、より多くの果実を狙える事もあろう。と前向きに。
大切なのは「明日死んでも悔いはない。」と思える事だ。
日本の多くの年寄りは、真剣に「一日でも長生きしたい。」らしい。(笑)
人は必ず死ぬのにね。
みっともないと思わず本気なのだ。
さて司馬遼太郎が亡くなって27年目になる。それ以後、随分と日本は変わった筈だ。司馬史観は確実に古くなったし自分自身が変わっている。
ところで今、一体腹筋は何回出来るのだろうか?
成し遂げた仕事もなく、バトンタッチす時期も近い。
多少は、焦らないようになった。
ゆっくり構えれば状況の方が変わることも解っている。
「ウルトラタイマー」が頭の中で遠くに聞こえる。
他人の歌に感動し、他人の運動に共鳴し、他人の生き方に共感するのは簡単だ。だからミリオンセラーになる。
大切なことは、自分で何が出来るか?それを探す。
人生は【苦】で出来ている。
42キロ走ることは苦しいだろう。
自転車で100キロも辛いだろう。
山を登ることも、
楽しようと思ってやってる訳ではない。
だから、どんな大きな会社の雇われ社長も、近所の八百屋のオヤジも私には同じ位置である。
大きな会社の社長が辞める前に総務部に行き「タクシー券」「定期延長しろ」だの強請る事は笑い話でよく聞く。
八百屋の親父は今日も自分の仕事をする。バイク屋の親父も同じく。
創業者は別としてサラリーマンという「天職」はありません。馬鹿にしているのではない。
どっちに転んでも苦しい。笑。
好きな事やっていいですね。
好きな事しか出来ない馬鹿かもしれぬ。
タダ、他人の価値観で生きてないだけだ。流行りモノこそ、廃れモノである。
バイクをコンビニの前で磨いてる腐れハーレー野郎よりも、原付バイク一人で日本回れる高校生余程にライダーである。
若い人は、何か迷ったら是非読んで下さい。
浮谷東次郎 著
「がむしゃら1500キロ」
既に彼の姉上も他界して、彼の痕跡はどうなってるのかは解らないけれど....
今時の価値観、幾ら稼いでいるか、フェラーリ乗ってるかではない。
生き方がある。青春いうやつ
「サヨナラだけが人生だ」井伏鱒二。