先だって私はあるファミレス(ファミリーレストラン)に居て、
つい見ることもなく辺りを見回していた。ファミレスだから皆、食事風景である。とある中年男性が一人、かなり離れて、さらに年配のご婦人が一人、それぞれ食事をしておられる。そして私はかつての自分の姿をそこに見出していた。
家族が離散し、ただひとりで生きなければならなかった。やがて妻を天に送った。そんな時代はまさに砂を噛むような、ただ体の必要を満たすためだけに、食物を口に入れていた。車にガソリンを補給しているのと同じ。
しかし時が来て、クリスチャン生活30年を経て、神様を体験してからというもの、食事後は聖書を読む楽しさが加わって、少しはこの感覚が薄らいだ。何しろ神様が私と共に歩んでくださるのだ。孤独では無い。その上、「あなたは結婚します」という示しを聞いて聞いてから以後(※これら「示し」「語りかけ」は本当に神から来ているのかどうか、すべて聖書を土台に吟味と祈りが必要です)、この独身の時代がいつまでも続くものでない、ならばこの時代を楽しもうと、すごい励ましがあった。
後になってこのほか、妻に関して示された多くのことはことごとく実現
した。今私の前にはいつも妻が居る。これは実に不思議なことだ。そして私の人生でこれほど幸せを感じることは、おのろけで無く、無かった。すべては神を直に体験したことからの恵みだった。心から神を崇めます。
今にして思うことだが、もし一人で食べる空しさをつくづく体験した時代が無かったならば、決してこのように「食事を妻と共に食べる」ことの喜びを感じる人間にはなっていなかったと。ひょっとして妻と食事しながらも、そばを通り過ぎる女性に気が散っていたり、妻との会話に飽き飽きしている男になっていたかと思う。だから受けた試練や困難が、今この私を新しく造り替えたいうことが分かる。するとこれらの受けた苦しみこそ、まこと(真実)の神の愛であったと置き換えられる。
妻を前にして、私は前の私と同じ心ではない。キリストの十字架は、一見サタンの勝利に見えたが、実は神の人類救済計画の完成と逆転勝利した。同じように、許された試練や困難は一転して、私の祝福の一つとなった。神の愛はどんなに偉大であることか!思い知る。 (ケパ)