ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

断食は、みこころの時に

2011年08月11日 | 信仰

 今ダイエットなどで断食をする方がいるようですが、それとはまったっく別に、 クリスチャンがする最も強い形での祈りとして断食があります。最近「み声新聞」の「牧師つれづれ日記」において、パウロ秋元牧師がオサンリでの断食体験を次のように述べておられました。


 ~さてそこでの断食祈祷は、ひどいものでした。おなかが減って、倒れてしまい、あおむけになって、ただ病人のように、弱々しく異言を語っているだけでした~


 これを読んでいて「そうそう私も同じだった」ことを思い出します。わたしの場合は同じオサンリでもたったの三日しかしなかったので、とても断食と言えるものではありません。Dannzikiしかし二日目、三日目のつらさは秋元牧師と全く同じで、心を定めて「祈りに祈る」なんて力はどこにもありませんでした。本当に辛くて倒れてしまい、ただ早くこの時が過ぎてくれるよう願っていました。


 最近新宿オアシスという書店で「修道院の断食」という本(写真)を求めて読んでいます。読み進めるにつれてかつて自分のした断食が、ただ「食べない」という意気込みだけであって、勢いだけで異国の全く見知らぬ祈祷院に乗り込んだという、かなり無謀なことであったとわかりました。指導者あるいは同伴者の存在、断食にあらわれるつらい諸症状への経験に基づく科学的な対応(サポート体制)があったなら、どんなに本来の祈るということができたかと、かなり悔しい思いにさせられます。

 さて前述の秋元牧師が「みこころの時、断食するようにお勧めします」と言われていますが、最近も「その通り」だと実感することがありました。数日前のことですが、1年前の8月8日はわたしたち夫婦にとって、船橋への牧師按手の日でもありました。私はこの年ではかなり運動している方なので、断食をすると相当ブレーキになり、できれば避けたい人間です。避けたいだけでなく、できれば断食したくない部類に入ると思います。しかし神さまに示されたら、どんな嫌なことあれ、牧師ですから喜んでみこころには従うのです。 Ha_itai2


 8月8日の三日前でしたが、早天の祈りをしていると、突然「8日には断食をもって、これからの備えをするように」と示されました。内心(ああ嫌だ)と思ってしまいました。しかし嫌なことを示される時、それがみこころである可能性は非常に高いのです。それで妻には「みこころだと思うから、その日断食しよう。みこころでなければ辛い断食になるので、途中で止めてもよいから」と、指示されたことを伝えました。


  はたして8日の日はどうであったかというと、どういうわけかその日は「食欲」が一日中湧かなかったのです。それで楽々断食が達成できただけでなく、朝の祈りから夜床につく直前まで夫婦で祈れた祈りの日となりました。三度三度の食事をきちんと食べないと気が済まない私に、こんなことは普通起こりえないことです。「みこころの時、断食する」ことは、かくも祝福されるものかを体験したのです! 主をあがめます。 (ケパ)

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