トマトが嫌いな子どもがいた。そこで、ミニトマトを育てさせてみたところ、子どもは喜んで食べたことを聞いた。ナルホドだが、これはどうだろう。
ニワトリを飼っていた少年がいた。ところが老ニワトリで卵を産まなくなったものを、ある日親が連れて来い、と言う。おとなしく少年に抱かれたニワトリは、目の前でさばかれ、その上少年にはその肉を食べることを求められた。「それが命を大切にすることだ」と。泣きながら少年は食べた。
親以上の年齢になった少年・・・・それは私のことだが、ありありとその時を思い出し、時にはトラウマとなって鶏肉を食べられなくなったこともあったのだが、やはりこう思うのだ。「すばらしい食育だった」と。そこまでしなくても、と眉をひそめられる方もおられるだろうし、現にかなり辛いことだったが、今はそうは思わない。それどころか、眉をひそめる方が甘いとすら思う。
生産と消費がまったくかけ離れてしまい、わたしたちは一つ一つの命を食して生きているのだという、食材への感謝が足りなくなってしまった。
間もなく全世界に、温暖化による気候変動とその結果である食糧危機・・・・飢饉が必ずやってくる。高騰した食材にパニックに陥り、供給が途絶えたその時、都会の消費者は飢えて死ぬのである。私の父母たちまでは野の草、木の実を知り、ニワトリをさばいて飢えをしのぐすべを知っていたのだが。 ケパ