ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

狭き門より入れ

2014年07月02日 | 随想

Jesus_32  少し前、テニスのことを書いた。息子ほど若い者といつも勝負している、と。ふつうスポーツの世界でそんなことはない。しかしそれができるのは、テニスの習熟が難しいからだと。テニスを少しでもしたことがある人ならおわかりのことだろう。毎日のように練習しても、意図通りに打ち返してゲームらしき形になるのに、たいていは半年から一年半ぐらいはかかる。そんなにヒマがあるのは特権階級ぐらいだから、昔はロイヤルスポーツと呼ばれていた。

 

 簡単にできるのは、簡単に追いつかれる。また、できたとしてもあまり価値はない。安易に到達できるものに、達成の喜びはない。楽に大学に通った学生は、大学での授業をナメたり、ささいなことで中退したりする。人が尻込みする困難なこと、苦しんで乗り越えられたこと、そこに人は喜びを感じ、生き甲斐を感じるもののようだ。産みの苦しみとはよく言ったものだ。もし人生がすべて平穏で楽で安易なものだったら、あなたは自分の人生を肯定し、褒めてやれるのだろうか?

 

 聖書に「狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その道は広く、これより入る者多し。命に至る門は狭く、その道は細く、これを見出すもの少なし(マタイ7:13-14)。」とある。人の知恵や常識で理解し、多くの人が良かれと思うものは、逆に言えば人程度の浅はかな領域を一歩も出ないものだ。キリスト教信仰は、ふつうに考えれば常識外だ。
 <右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ。貧しい者、虐げられた者、未熟な子どもこそ神の国に近い存在である。キリストは弟子の足を洗われて、偉くなりたいと思う者は私のように仕える者となりなさい>・・・・・と。それだけではない、湖の上を歩く、死後三日経った腐乱死体をよみがえらせる、神の子でありながら無実でありながら、もっとも恥辱と苦しみのあまり死ぬ十字架にかかる。三日後によみがえって、弟子たちに釘穴の傷跡に触らせる・・・・・・・常識ある人間なら、決して信じられない数々の記事。これがキリスト教だ。確かに人間の理性で信じようとするなら、狭き門なのだ。

 

 キリスト教徒は、自分の理性、世の常識、富や権力の一切を喜んで捧げる。必要とあらば自分の命さえも。なぜか?世の富よりも、権力よりも、己の命よりもはるかに価値のあるものをゲットしているからだ。それは「イエス・キリスト!永遠のいのち。」

 狂人と言われようと、信じてみたら真実だった。喜んでそしりを受けよう。しかし心よりお願いする。「狭き門より入れ」と。多くの人が入る門は滅びに至る門だと。この世と変わらない、自分中心の国(娑婆)へ行ってはいけない。   ケパ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする