ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

霊・魂・血肉のからだ

2014年07月28日 | 

Heaven_38  ふしぎな話である。人という存在が、である。

 血肉のからだがあって、それはせいぜい100年ぐらいまでには、必ず死んで滅んでしまうのに、なんと永遠に生き、残る霊・魂があるという。

 どうしてこのように、まったくあわない組み合わせとなったのか?それが疑問であった。しかし今はわかる。

 肉体のいのちは、滅ばない霊的ないのちのために存在しているのだ。なぜなら霊的ないのちの行く先には二つあって、天国(神の国)と地獄(ゲヘナ・火の池)が存在している。そのどちらに行くかを選択させるために、限りある肉体のいのちが存在しているのである。


 つぎのような聖書の言葉がある。

 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします(マタイ10:39)

 この意味は、自分の生きたいように生き、つまり自分のためにいのちを使った者は、寿命が来て死んだ際は、永遠のいのち(霊)を失い地獄に行く。しかし、キリストのために自分の血肉のからだを捧げて死んだ者は、神の国に行くことができるということだ。

 ここでの「いのちを失う」とは、二つのパターンがある。一つには文字通り、キリシタンの迫害時のように、「踏み絵」を踏まず、殉教した者。二つ目には、殺されはしなかったものの、平時でも神に己を捧げ、自分が死んでいる者。これも生きていてもすでに立派な死者である。これらが神の国へ行く鍵である。

 つまり血肉のいのちがある時にだけ、その大切なたった一つしか無いからだのいのちを、自分のためでは無く、キリストのために、その霊的いのちのために用いる(犠牲の捧げ物のように)テストとして、寿命のある血肉のからだがある理由なのである。このテストは自分の力では心もとない。この信仰の勝利を得られるよう、普段から(高木清右衛門のように)神に祈って求め続けよう。  ケパ

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