マタイによる福音書の4章1-2節では
「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」
と書かれている。断食に弱い私は、ここがイマイチわかっていなかった。なぜなら、イエス様は神の子なので、空腹を感じないように、自分のお腹に命じることなど何でもおできになれた。しかしそれでは断食は形式だけで意味がない。私はたった3日間の断食で音を上げた弱虫で(聞くところによると、一番きついのがはじめの3日間らしい)、イエス様は40日終わった後でようやく空腹を感じられた・・・は、到底想像できなかった。
今晩、我が船橋キリスト教会は、本当に天の大きな喜びで満たされた。長く待ち望んで祈り続けていたところの、霊と実際との勝利だった。私たちは歓喜し、栄光を神にお返しした。ハレルヤ!
で遅くなっていたが、夕食にとお弁当を買いに歩いてふと気が付いた。相当お腹が空いているはずなのに、空腹を感じないのだ。そしてこの時、喜びが私をおおっており、神を賛美していた。お腹が空けばすぐ怒りっぽくなる私が、である。この時ふと、断食が終わるまで空腹を感じられなかったイエス様のことが、少しわかるような気がした。「喜びに満たされておられたのかも」と。それがどのような喜びであったのか、想像するのも楽しいではないか。
三十歳になって、早逝した父ヨセフに代わっての一家を支える代役も、弟ヤコブ達の成長で解放された。縁者にあたる洗礼者ヨハネの活躍は、ユダヤの民を悔い改めへと大きく導き、舞台はいよいよ整った。そのヨハネからの洗礼で聖霊を受け、神の子としての時はまさに来た、「わたしはこのために来た」と・・・。
まさにB.C.(Before Christ)からA.D.(Anno Domini)の主の年、恵みの年へと、人類の歴史の一大転換の実質が始まろうとしているのだ。十字架を凌駕する、どれほど大きな喜びがその日々の内にあったことだろうか!
そんな想いに満たされ、幸せな私はお弁当屋に向かった。 ケパ
「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」
と書かれている。断食に弱い私は、ここがイマイチわかっていなかった。なぜなら、イエス様は神の子なので、空腹を感じないように、自分のお腹に命じることなど何でもおできになれた。しかしそれでは断食は形式だけで意味がない。私はたった3日間の断食で音を上げた弱虫で(聞くところによると、一番きついのがはじめの3日間らしい)、イエス様は40日終わった後でようやく空腹を感じられた・・・は、到底想像できなかった。
今晩、我が船橋キリスト教会は、本当に天の大きな喜びで満たされた。長く待ち望んで祈り続けていたところの、霊と実際との勝利だった。私たちは歓喜し、栄光を神にお返しした。ハレルヤ!
で遅くなっていたが、夕食にとお弁当を買いに歩いてふと気が付いた。相当お腹が空いているはずなのに、空腹を感じないのだ。そしてこの時、喜びが私をおおっており、神を賛美していた。お腹が空けばすぐ怒りっぽくなる私が、である。この時ふと、断食が終わるまで空腹を感じられなかったイエス様のことが、少しわかるような気がした。「喜びに満たされておられたのかも」と。それがどのような喜びであったのか、想像するのも楽しいではないか。
三十歳になって、早逝した父ヨセフに代わっての一家を支える代役も、弟ヤコブ達の成長で解放された。縁者にあたる洗礼者ヨハネの活躍は、ユダヤの民を悔い改めへと大きく導き、舞台はいよいよ整った。そのヨハネからの洗礼で聖霊を受け、神の子としての時はまさに来た、「わたしはこのために来た」と・・・。
まさにB.C.(Before Christ)からA.D.(Anno Domini)の主の年、恵みの年へと、人類の歴史の一大転換の実質が始まろうとしているのだ。十字架を凌駕する、どれほど大きな喜びがその日々の内にあったことだろうか!
そんな想いに満たされ、幸せな私はお弁当屋に向かった。 ケパ