ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

ただ信じるだけ

2015年09月24日 | 信仰
今日のデポーショの聖書の読むページは
コロサイ人への手紙の箇所 1章でした。この箇所から、オンライン会員の方が質問されました。

ケパ牧師が、お答えしてくれました。
とてもわかりやすいのでここに書きます。

福音とは、いつの時代でも、また世界中どこでも同じことで、一言で言えば「神の子キリストは、私たちの罪のために十字架にかかってくださった。そのことを信じるなら、どんな罪でも赦され、神の国(永遠の命)に行けます」ということです。福音とはこれだけです。

詳しく言うと上述には、この場合、パウロがコロサイという小アジアで語ったということ、そこにはたくさんのユダヤ人や 現地の人々が居たのです。ユダヤ教の律法で(つまり行いで)人は救われるのではなく、イエスが神(の子)であって、神が私の罪の身代わりになった、私はそれを信じるだけで(信仰によって)救われるということを言ったことになります。律法ではなく、信仰で、です。

正確には使徒信条というものがあり、これを洗礼式の時に、告白(公に言い表す)します。もっとも今では、信仰を持つに至った経緯を「証」という形で読み上げたりします。

※使徒信条
我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず
アーメン


写真はパトモスチーム路上ライブ。信仰に立ち賛美しました。 ドルカス


コメント
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