海外のニュース、特に中東の情勢に私は関心を持っている。そしてここ四、五年、アラブの春から混乱が始まった世界最悪の危機に突入しているシリアを憂いている。
歴史上、これほど悲惨な状況に陥った国が他にあるだろうか? 権力の亡者、アサド大統領の苛烈な弾圧に、武力で立ち上がった反体制派(自由シリア軍)との戦線が膠着しているすきに、最も邪悪なISに国土の半分近くをあっという間に取られ、最近ではさらに他のイスラム過激派武装集団(アルヌスラや、アルカイダ)に国土を虫食いのように荒らされている。こうなってはこの国が元のように戻れるとは、誰もが希望を持たなくなっている。
この五年間の内戦で命を落としたシリア人は25万人。国内難民は800万人、国外に逃れた400万人で、今なお何十万人のシリア人が命がけでヨーロッパを目指している。国と国との戦いに敗れて国を失うのが常だったが、ここではそうではない。国民同士、シリア人同士が最後の一人になるまで戦おうとしているのだ。つまり殺戮の末に、もう元のようには戻れない全く変わった国になるということだ。
忘れてはならないのは、かつてイスラエルとの第4次中東戦争(1973年、キムヨプール(大贖罪日)戦争において、ゴラン高原での近代史上最後の大戦車戦を演じたのはこのシリアだった。つまり中東では強国だったのである。
私たち日本人にはよくわからないのが、どうして同じイスラム教徒同士なのに、あそこまで互いに戦い殺しあっているのかということだろう。大きく分けてスンニ派とシーア派の宗派間対立に、それぞれの盟主、サウジとイランが黒幕として控え、さらにアメリカやヨーロッパが空爆に加わり、なんとロシアまで割って入るという一層の混迷さである。もう互いに力尽きて止めようよ、の無い、果てしなき代理戦争の修羅場と化している。
昔、キリスト教が激しい迫害を乗り越えて、ローマの国教となり、権力と結びついた時、著しく堕落し腐敗した。本来、宗教と権力とは相反する別モノである。神の国は天にあり、この世はサタンの支配する滅び行く国である。
このシリアの地で宗教の名の下に多くの不法が正当化されていることに、彼らの言う宗教とは名ばかりのものであることがわかる。それにつれて想い出されるのは、免罪符にたまりかねてプロテスタントがカトリックから分離した宗教改革である。これには唯一の絶対的な信仰の基準、聖書が土台としてあったからこそ為し得た浄化である。この聖書は極めて(神の守りによって)、原典に近いものが保存され、二千年経ってもそれが証明され(シナイ文書、死海文書)、好き勝手な解釈を許さないものであった。神は徹底的に愛であった。
しかしシリアにおける悲劇はその経典(コーラン)の解釈によっては、権力の亡者が自らの立場の強化に用いられることにあるように私は見える。聖書がある。私たちはこの聖書の民である。主はほむべきかな! ケパ
歴史上、これほど悲惨な状況に陥った国が他にあるだろうか? 権力の亡者、アサド大統領の苛烈な弾圧に、武力で立ち上がった反体制派(自由シリア軍)との戦線が膠着しているすきに、最も邪悪なISに国土の半分近くをあっという間に取られ、最近ではさらに他のイスラム過激派武装集団(アルヌスラや、アルカイダ)に国土を虫食いのように荒らされている。こうなってはこの国が元のように戻れるとは、誰もが希望を持たなくなっている。
この五年間の内戦で命を落としたシリア人は25万人。国内難民は800万人、国外に逃れた400万人で、今なお何十万人のシリア人が命がけでヨーロッパを目指している。国と国との戦いに敗れて国を失うのが常だったが、ここではそうではない。国民同士、シリア人同士が最後の一人になるまで戦おうとしているのだ。つまり殺戮の末に、もう元のようには戻れない全く変わった国になるということだ。
忘れてはならないのは、かつてイスラエルとの第4次中東戦争(1973年、キムヨプール(大贖罪日)戦争において、ゴラン高原での近代史上最後の大戦車戦を演じたのはこのシリアだった。つまり中東では強国だったのである。
私たち日本人にはよくわからないのが、どうして同じイスラム教徒同士なのに、あそこまで互いに戦い殺しあっているのかということだろう。大きく分けてスンニ派とシーア派の宗派間対立に、それぞれの盟主、サウジとイランが黒幕として控え、さらにアメリカやヨーロッパが空爆に加わり、なんとロシアまで割って入るという一層の混迷さである。もう互いに力尽きて止めようよ、の無い、果てしなき代理戦争の修羅場と化している。
昔、キリスト教が激しい迫害を乗り越えて、ローマの国教となり、権力と結びついた時、著しく堕落し腐敗した。本来、宗教と権力とは相反する別モノである。神の国は天にあり、この世はサタンの支配する滅び行く国である。
このシリアの地で宗教の名の下に多くの不法が正当化されていることに、彼らの言う宗教とは名ばかりのものであることがわかる。それにつれて想い出されるのは、免罪符にたまりかねてプロテスタントがカトリックから分離した宗教改革である。これには唯一の絶対的な信仰の基準、聖書が土台としてあったからこそ為し得た浄化である。この聖書は極めて(神の守りによって)、原典に近いものが保存され、二千年経ってもそれが証明され(シナイ文書、死海文書)、好き勝手な解釈を許さないものであった。神は徹底的に愛であった。
しかしシリアにおける悲劇はその経典(コーラン)の解釈によっては、権力の亡者が自らの立場の強化に用いられることにあるように私は見える。聖書がある。私たちはこの聖書の民である。主はほむべきかな! ケパ