ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

祈りに、すごい勘違いをしていた

2017年12月29日 | 祈り
クリスチャンが日々、神様に祈るのは当然だが、時々矛盾を感じる時がある。

《委ね、安んじていなさい》
心の中の心配事、悩みや不安等から、祈りに導かれて祈ると「すべてを知っている私(神)を信頼し、心配しないでいなさい」と示されることがある。あまりしつこく祈ったら、かえって自分の不信仰を露呈してしまうような気がし、できるだけ心配しないようにしようと思うことがある。神に感謝し、すべてを委ねて平安で泰然としていたい、と。
✝️ あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。(1ペテ5:7)


《祈り、祈りを積み上げる》
しかし、逆のことを示される時がある。それは「祈りを積み上げなさい」と示される時である。先だってのコンサートでTrueVineの素子さんは「小児麻痺で不自由な息子の左足が癒やされるよう、奇跡を求めて、親子で祈りを積み上げて行った」話を聞いた。ご承知のように結果、息子のシオン君はバドミントンの選手になったり、普通に歩ける青年になったと言う奇跡が起こったのだ。

この話を聞いて、改めて「祈りが神の手を動かす力だ」と私は強く示された。
✝️いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。(ルカ18:1)

《では、どっちが本当?》
では平安で安んじているべきなのか、それとも祈りに祈るべきなのか?どちらなのだろうか、その夜私が答えを求めて祈ると、翌朝、目が覚めるかどうかの呆然としているうちに、次のような示しが来た。


「祈るべきです。祈りに祈って、祈りの中から与えられる確信に立ちなさい。平安とは、祈りの中から与えられる確信そのものです」と。吟味してみたが、個人的にはすごく納得した。そうだ、その通りだと。

神は全知であるが、次のようなみ言葉がある。
✝️何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリビ4:6)

神は確かに全てを知っておられるが、それでも私たちの祈りに、それがどんなにしつこくても、嫌がられたり、不信仰だと思われることはない。神との関係で、私たちが思い煩うことはない。おそれることはないのだ。遠慮なく、父の許に行ってどんなことでも祈ろう。まして心を痛め、呻いて祈ることに、父もまた共に重荷を負ってくださるのだ。私たちが祈りで来ること、それを待っておられるのが父なのだ。

父なる神は、私を愛してくださっている。私はものすごい勘違いをしていた。




ケパ




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