テニスの合間に楽しく会話していた。
とつぜん、「(学校の)先生だからって、生徒のために命までかけなきゃいけないって法はないよねぇ」と。これは私の前職を知っていた故の発言だし、きっと身内にも教職の家族が居るのかも知れないとも思った。わたしは即座に答えた。
「いいえ、強要はできないでしょうが、死ななきゃいけない時は死ななきゃならない、そう思ってました。」
昭和9年(今から81年前)に広島帝釈峡「神竜湖遊覧船沈没事故」という悲劇が起こった。詳細は下記から引用した。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1487320754
1934年3月24日に神竜湖の遊覧船が沈没する惨事が発生した。これは比婆郡田森村(現在の庄原市東城町)の粟田尋常小学校と粟田尋常高等小学校の卒業遠足の一行42名が遊覧船に乗船したところ、船が沈没し、児童12名と引率教諭2名が犠牲になった。犠牲になった引率教諭のうち1名はわが子も乗船していたが、他の児童を優先して救助したのち、最期は力尽き親子とも亡くなったという。現在桜橋の袂に慰霊碑が建立されている。(写真はその帝釈峡の神竜湖)
私も広島県の教職であったので、この先輩たちのことはよく耳にした。そしていつも考えた。「もし自分がこのような場に遭遇していたとしたら、どうするか」と。上には述べられてないが、教諭はようやくひとりを助けて岸に泳ぎ着いても、まだ全員が助かっていないと聞くと、また助けに湖に戻って行き、結局、力尽きて教諭は水死している。
もし私が「その時その場に居合わせたら」と私は、何度も想像してみた。もちろんその場になってみなければ、分からない事なのだが、年を経るに従って「死ななければならない時は、死んだ方がマシだ」と思うようになった。それはたった一つしかない命だからこそ、そうなのだ、と。
誤解のないように少し説明を試みると、自分の手に託された子どもたちは死んだが、教諭が努力はむろん精一杯したのだが、自分の命を惜しんで助かってしまったとする。それは言葉を換えれば、子どもの命を捨て、代わりに自分の命を救った、と言うことである。状況にも依るが、ひょっとして、誰も責めはしないかも知れない。しかし、その教師はもう廃人、死んだも同様である。救った残りの命の日数が尽きるまで、地の果てにまで逃げたとしても、自分の心は「見殺しにして自分を救った」という不名誉な記憶の中で過ごすことになる。それならば断念せず、子どもを助けに助けて、それでもまだ水中に残っているのなら、力尽き死に行こうとも、その方が良いではないか、と言う意味である。
私は死にはしなかったが、ちょっとだけ似たような経験をした。それは重度の自閉症児童を担任していた時のことである。何の前触れもなしにとつぜんその児童が、人差し指と中指で私の目を突く所作をするのである。最初は防げずに外れて、周囲の皮がはがれるだけですんだ。二度目は振り向きざまであったので、幸い命中することはなかった。しかし2回目から恐怖が私を捉えた。この児童と接するのに、透明なゴーグルをかけるべきか、それとも常に届かない距離にいるべきか、と。幸いこの時は神に祈り、聞くことができていたので次のように導かれた。
「もし突かれて失明するなら、それでよい。私の神の定めとして、失明ならば失明を受けよう。ゴーグルを着けても、距離を取っても、それはもう、教育ができないのだから」と。
最近は「我が子の卒業式のために、自分のクラスの卒業式を欠席した」教諭もいるとか。それで教師を責める方もおられるかも知れないが、むろんわたしは欠席などはしないが、だからといってこれは、命と次元の違う話であって、家庭の事情も分からず、一概に責めることはできないと思う。このような意味で、私は決して自分以外の人に求められることではないし、まったく個人的な気持ちを述べているだけである。
ただ、これだけは言えることだが、私がもしこの世だけが全てで、死の先にあるものは無だと思っていたならば、失明や死に、恐れが先立って自分を守ってしまう可能性が高いと思う。しかし今は神を体験し、死の先にある永遠の霊的、実際的ないのちを確信している。自分の体の命を救って、自分の永遠のいのちを失うならば、それは愚かな選択であると真底私は思っている。
まして人間に与えられた霊のいのちに気づかず、十字架によってそのいのちを救い得ることなしに、この世での生を終えるならば、これほど残念な事はないと思う。私はその残念な人々に福音を伝え、仕えるために生かされている。 ケパ