きょうはSIGNの写真茶話会の最終回。
名残りおしいけど、何事もつぎのステージに行くためには、どこかでけじめをつける必要がある。
SIGN氏は今回が42回目で「しに」行く日だといったが、たしかにきょうは19日、「イク」のである。しかも5月で「ゴー」だ。
語呂合わせはともかく、きょうはこれまで撮ってきた写真を作品としてまとめなければならない。
SIGN氏はまずFさんがもってきた膨大な量の写真群をていねいに見ながら、その中から重要なカットを選りわけ、グループ化し、その前後を入れ替え、すっきりと見えるように編集していく。
わたしは自分の写真を見てもらうときは当然、ほかの人の写真がどのようにして作品になっていくのかに注目している。
その様子はいつもながら「SIGNマジック」だ。きょうこそ、そのタネを見破ってやる。
Fさんの写真は家族でお寺参りしたときに撮ったもので、そのほとんどが家族を写した写真か、参道に咲く花であったり樹木の写真だ。自宅で家族を撮った写真もある。
だが分量のわりには同じようなものばかりで情報量は乏しい。これは作品というより記念写真だな。
写真をはじめたばかりの学生さんなどはこういう写真をよく撮る。自分のなかに撮りたいイメージがないので、表面的な美しさやおもしろさだけで何でもかんでもシャッターを切ってしまう。
その結果、自分でもわけのわからない写真群ができてしまって、溺れそうになるわけだ。
それこそ一度溺れてみないと、そこから這い上がるときの苦しさや浮上する喜びもわからないけれど、素人さんにそこまで求めるのは苛酷というものであろう。
しかしながら、どんな写真にも(たとえ本人が気づいてなくとも)撮影者の主感や主題がある。
その隠れた(無意識の)主題を写真のなかから読みとるのがSIGN氏の役割。主題さえ発見できれば、あとはそれを効果的に見せるために編集するだけである。
SIGNマジックとは編集のテクニックだとカンちがいしていたけど、そうではないことが最終回のきょう、ようやくわかった。
それがマジックのタネといえばタネなのだが、彼の卓越した洞察力(それは写真に対してのみならず、それを撮った人間に対しても)があるからこそ成立するマジックであって、なかなかだれにでもできるものではない。
むしろ問題は彼がえぐり出してきたその主題を、撮影者自身が認めるか否か、かもしれない。
この写真茶話会に参加しはじめた当初は、わたしは写真学校の学生を連れていき、自分は見学者のような立場でその様子をただ見ていた。
なので、学生たちの写真群から彼が主題を抽出する行為は「ねつ造」ではないかと感じていた。
だが学生たちが卒業し、今度は自分の作品をもって参加するようになると、その主題がねつ造ではなかったことを知る。
この話をしだすと、わたしのおいたちから書かねばならないから割愛するが、とにかくSIGN氏の洞察力に脱帽して以来、なんとかしてそのワザを盗んでやろうとこの写真茶話会に参加してきたのである。
心のなかにコンプレックスやなんらかの欠落感のない人間はいないと思うが、そういうネガティブな要素が写真表現の原動力になったりする。
その部分に自分自身が気がつき、それをどのようにポジティブな形へ昇華していくのか。
写真表現というのは本当に深い。ちょっとでも覗いてしまったら最後、あとはどんどん突き進むのみだ。
まさにそうして橋を渡っていくのである。
かくして8時間にもおよぶSIGNの写真茶話会はおわった。
名残りおしいけど、何事もつぎのステージに行くためには、どこかでけじめをつける必要がある。
SIGN氏は今回が42回目で「しに」行く日だといったが、たしかにきょうは19日、「イク」のである。しかも5月で「ゴー」だ。
語呂合わせはともかく、きょうはこれまで撮ってきた写真を作品としてまとめなければならない。
SIGN氏はまずFさんがもってきた膨大な量の写真群をていねいに見ながら、その中から重要なカットを選りわけ、グループ化し、その前後を入れ替え、すっきりと見えるように編集していく。
わたしは自分の写真を見てもらうときは当然、ほかの人の写真がどのようにして作品になっていくのかに注目している。
その様子はいつもながら「SIGNマジック」だ。きょうこそ、そのタネを見破ってやる。
Fさんの写真は家族でお寺参りしたときに撮ったもので、そのほとんどが家族を写した写真か、参道に咲く花であったり樹木の写真だ。自宅で家族を撮った写真もある。
だが分量のわりには同じようなものばかりで情報量は乏しい。これは作品というより記念写真だな。
写真をはじめたばかりの学生さんなどはこういう写真をよく撮る。自分のなかに撮りたいイメージがないので、表面的な美しさやおもしろさだけで何でもかんでもシャッターを切ってしまう。
その結果、自分でもわけのわからない写真群ができてしまって、溺れそうになるわけだ。
それこそ一度溺れてみないと、そこから這い上がるときの苦しさや浮上する喜びもわからないけれど、素人さんにそこまで求めるのは苛酷というものであろう。
しかしながら、どんな写真にも(たとえ本人が気づいてなくとも)撮影者の主感や主題がある。
その隠れた(無意識の)主題を写真のなかから読みとるのがSIGN氏の役割。主題さえ発見できれば、あとはそれを効果的に見せるために編集するだけである。
SIGNマジックとは編集のテクニックだとカンちがいしていたけど、そうではないことが最終回のきょう、ようやくわかった。
それがマジックのタネといえばタネなのだが、彼の卓越した洞察力(それは写真に対してのみならず、それを撮った人間に対しても)があるからこそ成立するマジックであって、なかなかだれにでもできるものではない。
むしろ問題は彼がえぐり出してきたその主題を、撮影者自身が認めるか否か、かもしれない。
この写真茶話会に参加しはじめた当初は、わたしは写真学校の学生を連れていき、自分は見学者のような立場でその様子をただ見ていた。
なので、学生たちの写真群から彼が主題を抽出する行為は「ねつ造」ではないかと感じていた。
だが学生たちが卒業し、今度は自分の作品をもって参加するようになると、その主題がねつ造ではなかったことを知る。
この話をしだすと、わたしのおいたちから書かねばならないから割愛するが、とにかくSIGN氏の洞察力に脱帽して以来、なんとかしてそのワザを盗んでやろうとこの写真茶話会に参加してきたのである。
心のなかにコンプレックスやなんらかの欠落感のない人間はいないと思うが、そういうネガティブな要素が写真表現の原動力になったりする。
その部分に自分自身が気がつき、それをどのようにポジティブな形へ昇華していくのか。
写真表現というのは本当に深い。ちょっとでも覗いてしまったら最後、あとはどんどん突き進むのみだ。
まさにそうして橋を渡っていくのである。
かくして8時間にもおよぶSIGNの写真茶話会はおわった。