7月4日梅雨の
間を
石橋山の古戦場~石垣山の
一夜城を歩いてきた。
JR東海道線根府川駅~早川駅(一駅)を歩いたことになる。
源頼朝~豊臣秀吉、中世の歴史を偲んで・・・・・。
:
:根府川駅
10:20 今日のスタートはJR根府川駅、初めて降りました。
「ヒルトン小田原リゾート&
スパ」下車駅です。
:遠景
「ヒルトン小田原リゾート&スパ」 http://www.hiltonodawara.jp/
:相模
根府川の岡から見た東側の景色です、手前小田原市内、奥に聳えるのは大山です。
:石橋山へ
ミカン畑を上り、下りし石橋山の古戦場へ向かいます。
石橋山の合戦とは・・・。
治承4年(1180年)伊豆国を出て東に軍を進めた源頼朝(三百騎)は、8月23日、
平家方、大庭景親(三千騎)・伊東佑親(三百騎)を相手に石橋山に布陣した。
頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが
討ち死にして大敗した。
『平家物語』、『源平盛衰記』などには佐奈田与一(真田余一)の奮戦が伝えられ、
この地には与一を祀る、佐奈田霊社創建されている。
また、義忠の郎党文三(ぶんぞう)を祀る文三堂も建てられている。
[源頼朝 略年譜]
久安3年(1147年)義朝の三男として生まれる。
平治元年(1159年)13歳、平治の乱に父に従い初陣、敗走。
永歴元年(1160年)14歳、父義朝、尾張で殺さる。捕えられ、伊豆に流される。
治承元年(1177年)31歳、北条時政の娘政子を娶る。
治承4年(1180年)34歳、以仁王の令旨を受け挙兵、石橋山に敗れ安房に逃げる。
鎌倉に入り、富士川の合戦で平家を破る。鎌倉に侍所を置き、武家政権を確立。
(日本史探訪第二集 源頼朝より)
11:16 苔むした石段の先に文三堂があります。(
K池さんです)
文三堂を守るお地蔵さんたち。
:文三堂
:ねじり坂
佐奈田与一義忠が討ち死にした「ねじり坂」。
:佐奈田霊社参道
:能書
:旧跡
与一を祀る、佐奈田霊社です。(与一塚も)
:佐奈田霊社
11:25 立派な建物です、訪れる人は
どうなんでしょうか?
石橋山の古戦場を後に、山道(舗装済み)石垣山へ向かいました。
小田原市内、
小田原城の天守閣が見えます。
:道標
この看板が道標です、ほぼ完璧でした。
:廃車?
野猿には遭いませんでした。
:本丸
12:40 「石垣山一夜城公園」に、駐車場の東屋で昼食。
:
「小田原城包囲の戦い」は、天正18年(1590年)4月3日から始まり、7月5日
北条氏尚は降伏、北条氏は滅亡した。
(北条方:.
万、これを包囲した秀吉側は:
万とも2
万ともいわれる
まさに小田原城包囲の戦いだ)
:眺望
本丸から小田原城を望むが樹木が邪魔をして見えない。
本丸跡のシャガの林、赤く見えるのはテンナンショウです。
石垣山一夜城由来は・・・
豊臣秀吉が築城に当たり、山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを造り、
白紙を貼って白壁のように見せかけ、完成すると周囲の樹木を伐採した。
それを見た小田原城の将兵が一夜のうちに城が出現したと思ったという伝承から
石垣山一夜城と呼ばれた。
:
関東で最初に造られた総石垣の城の面影。
野面(のずら)積みで造られ、長期戦に備えた本格的な城造りの証左が残っていた。
(築城に約40日かかったと書かれていた)
13:00 早川駅へ下る。
この「看板」が舗装道路に掲げられている。
舗装道路を下るのは
味気ないが・・・・・。
”居心地が悪そうな小田原城です、
もポツポツ落ちてきました。
:ふよう :やぶからし :ハナニガナ
:オカトラノオ :ノカンゾウ :テンナンショウ(多かった)
13:55 JR早川駅、JRの駅でいえばつ歩いたことになる。
(ちなみに運賃190円の節約?でしょうか)
*
歩程:標高差140m、約11km、3.5時間
10:20 根府川駅 ⇒10:45 牧谷川橋 ⇒【石橋山古戦場】11:16 文三(ブンゾウ)堂
⇒11:25 佐奈田神社 ⇒12:20 大平橋 ⇒12:40~13:00 石垣山(一夜城)・昼食
⇒13:55 早川駅
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:
の日
twins
が父の日に贈った
ネ
ク
タ
イです。
「ネクタイの制作」にも個性が出ていますとは、叔母keikeiのコメントです。
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今週は日本百名山最難関 幌尻岳(Ⓜaitabiツアー)です。
【 登頂率70~80%、南海上のが気になります 】