作品のエクステリアはとても魅力的で、昨今の邦画の中では突出したクォリティを示す。キャストも全員が上質のパフォーマンスを見せ、批判すべきところは見つからない。また、シッカリとした演出は好感が持てる。しかし、映画としてはあまり盛り上がらないのだ。これはたぶん、作劇のコンセプト自体に問題があったのだと思う。
大正時代、京都のマキノ映画制作所に所属する若手女優の長谷川泰子は、年下の学生である中原中也と出会い、一緒に暮らし始める。やがて2人は東京に転居するが、彼らを後に高名な文芸評論家となる小林秀雄が訪ねてくる。小林は中原の詩人としての早熟な才能に惚れ込んでおり、意気投合する。泰子は才能溢れる彼らから仲間はずれにされたような気分になるが、やがて小林も彼女を好きになり、複雑な三角関係が始まってしまう。

とにかく美術やセット、衣装デザインなどの素晴らしさに圧倒されてしまう。おそらくは綿密な時代考証に基づいた精緻な画面造型、そして儀間眞悟のカメラによる思い切ったアングルからの映像は、眺めているだけでリッチな気分になる。主役の広瀬すず、木戸大聖、そして岡田将生の演技は万全。特に木戸は初めて見る役者ながら、そのナイーヴな持ち味には感心した。
しかし、この映画には中原中也の文学者としての非凡さや、小林秀雄の並外れた批評眼などにはまったく言及していない。もちろん、体裁はメロドラマだからそんなのは必要無いという言い方も出来るだろうが、よく知られた人物たちを扱っているのだから彼らの才能を紹介するのは当然だ。また、そういうモチーフを挿入することによってドラマは盛り上がる。
脚本は大御所の田中陽造だが、そのシナリオの元になっているのは長谷川泰子の回想録「ゆきてかへらぬ 中原中也との愛」なのだ。つまりは、ヒロインの視点によってしか物語は綴られていない。これでは映画を作る上で失当ではないだろうか。優れた“外観”を持っていながら作品として物足りないのは、そのせいである。
それでも、16年ぶりに長編映画のメガホンを取った根岸吉太郎は頑張っていたとは思う。同じく田中陽造の脚本による「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」(2009年)よりは落ちるが、「透光の樹」(2004年)に比べれば遥かにマシ。根岸が今後も映画を手掛けていくのかどうかは不明だが、この世代に属する他の監督が次々と世を去ってしまった現在、彼には新作を期待したいものだ。
大正時代、京都のマキノ映画制作所に所属する若手女優の長谷川泰子は、年下の学生である中原中也と出会い、一緒に暮らし始める。やがて2人は東京に転居するが、彼らを後に高名な文芸評論家となる小林秀雄が訪ねてくる。小林は中原の詩人としての早熟な才能に惚れ込んでおり、意気投合する。泰子は才能溢れる彼らから仲間はずれにされたような気分になるが、やがて小林も彼女を好きになり、複雑な三角関係が始まってしまう。

とにかく美術やセット、衣装デザインなどの素晴らしさに圧倒されてしまう。おそらくは綿密な時代考証に基づいた精緻な画面造型、そして儀間眞悟のカメラによる思い切ったアングルからの映像は、眺めているだけでリッチな気分になる。主役の広瀬すず、木戸大聖、そして岡田将生の演技は万全。特に木戸は初めて見る役者ながら、そのナイーヴな持ち味には感心した。
しかし、この映画には中原中也の文学者としての非凡さや、小林秀雄の並外れた批評眼などにはまったく言及していない。もちろん、体裁はメロドラマだからそんなのは必要無いという言い方も出来るだろうが、よく知られた人物たちを扱っているのだから彼らの才能を紹介するのは当然だ。また、そういうモチーフを挿入することによってドラマは盛り上がる。
脚本は大御所の田中陽造だが、そのシナリオの元になっているのは長谷川泰子の回想録「ゆきてかへらぬ 中原中也との愛」なのだ。つまりは、ヒロインの視点によってしか物語は綴られていない。これでは映画を作る上で失当ではないだろうか。優れた“外観”を持っていながら作品として物足りないのは、そのせいである。
それでも、16年ぶりに長編映画のメガホンを取った根岸吉太郎は頑張っていたとは思う。同じく田中陽造の脚本による「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」(2009年)よりは落ちるが、「透光の樹」(2004年)に比べれば遥かにマシ。根岸が今後も映画を手掛けていくのかどうかは不明だが、この世代に属する他の監督が次々と世を去ってしまった現在、彼には新作を期待したいものだ。