(原題:Next Stop Wonderland)98年作品。ウィットに富んだ小粋な大人のラブコメの線を狙ってはいるが、作者の力量がイマイチであるためか、物足りない出来に終わっている。上映時間が96分と短いにも関わらず、かなり長く感じてしまった。
恋人に振られてしまったエリンは傷心の真っただ中にあったが、それを見かねた母親が、勝手にエリンの名前で恋人募集の広告を出してしまう。早速数十件の応募があるが、彼女はどれもピンと来ない、一方、配管工をしながら大学のカリキュラムを履修しているアランも、その広告を目にする。彼の悪友どもはエリンの彼氏候補として名乗りを上げろと囃し立てるが、アランにその気はない。なぜなら彼は、大学で一緒に学んでいるジュリーと交際中だったからだ。

その頃エリンは広告の効果が思いのほか小さいことに落胆していたが、そんな彼女の前に優しい二枚目のブラジル人アンドレが現れる。エリンは彼に誘われ、ついにはブラジル行きの航空券を手にしてしまう。
ハナからネタバレするようで恐縮だが、これは主人公たちが出会うまでを描いた映画である。だから、終盤を除いてエリンとアランは顔を合わせることはない。その設定だけ見れば、気が利いているようにも思えるのだが、どうにも作劇がパッとしない。
ブラッド・アンダーソンの演出は冗長で、登場人物の内面にも迫っていないが、それをドキュメンタリータッチの“自然な”撮り方でカバー出来ると思い込んでいるらしい点が何とも浅はかだ。含蓄のあるセリフを散りばめて求心力を上げようとするものの、どれも上滑りしている。
そもそも、ボストンを舞台にしたアメリカ映画という事実と、手持ちカメラおよびボサノヴァ音楽というインディ的テイストが悲しいほど合っていない。このコンテンツならアメリカ映画である必要はなく、フランス映画でも観ていればいい。これが長編第二作目だったブラッド・アンダーソンの仕事ぶりは低調だが、その後彼は娯楽路線(それもB級)に転じたことを考え合わせると、こういうネタは合っていないかったのだろう。
主演のホープ・デイヴィスとアラン・ゲルファン、そしてヴィクター・アルゴ、ジョン・ベンジャミン、カーラ・ブオノといったキャスト陣はあまり印象に残らず。クラウディオ・ラガッツィの音楽は、映画抜きの“単品”ならば評価できる。
恋人に振られてしまったエリンは傷心の真っただ中にあったが、それを見かねた母親が、勝手にエリンの名前で恋人募集の広告を出してしまう。早速数十件の応募があるが、彼女はどれもピンと来ない、一方、配管工をしながら大学のカリキュラムを履修しているアランも、その広告を目にする。彼の悪友どもはエリンの彼氏候補として名乗りを上げろと囃し立てるが、アランにその気はない。なぜなら彼は、大学で一緒に学んでいるジュリーと交際中だったからだ。

その頃エリンは広告の効果が思いのほか小さいことに落胆していたが、そんな彼女の前に優しい二枚目のブラジル人アンドレが現れる。エリンは彼に誘われ、ついにはブラジル行きの航空券を手にしてしまう。
ハナからネタバレするようで恐縮だが、これは主人公たちが出会うまでを描いた映画である。だから、終盤を除いてエリンとアランは顔を合わせることはない。その設定だけ見れば、気が利いているようにも思えるのだが、どうにも作劇がパッとしない。
ブラッド・アンダーソンの演出は冗長で、登場人物の内面にも迫っていないが、それをドキュメンタリータッチの“自然な”撮り方でカバー出来ると思い込んでいるらしい点が何とも浅はかだ。含蓄のあるセリフを散りばめて求心力を上げようとするものの、どれも上滑りしている。
そもそも、ボストンを舞台にしたアメリカ映画という事実と、手持ちカメラおよびボサノヴァ音楽というインディ的テイストが悲しいほど合っていない。このコンテンツならアメリカ映画である必要はなく、フランス映画でも観ていればいい。これが長編第二作目だったブラッド・アンダーソンの仕事ぶりは低調だが、その後彼は娯楽路線(それもB級)に転じたことを考え合わせると、こういうネタは合っていないかったのだろう。
主演のホープ・デイヴィスとアラン・ゲルファン、そしてヴィクター・アルゴ、ジョン・ベンジャミン、カーラ・ブオノといったキャスト陣はあまり印象に残らず。クラウディオ・ラガッツィの音楽は、映画抜きの“単品”ならば評価できる。