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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「アリスのままで」

2015-07-18 06:50:57 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Still Alice )凡作だ。突っ込みが浅く、ストーリーはいい加減で、演出は冗長。わざわざ劇場に足を運ぶまでもなく、テレビ画面で(それも、ヒマな時に)接するのが相応しい。

 ニューヨークのコロンビア大学で教鞭を執る言語学教授アリスは50歳。子育ても終わり、仕事に打ち込む充実した日々を送っていた。ある日、講演の席で基本的な用語が口から出てこなくなる。やがてジョギングの最中に道に迷ってしまったり、周囲の者の名前を失念したりと異変は続いたため、彼女は病院の神経科で診察を受ける。

 結果、アリスは若年性のアルツハイマー病に罹患していたことが判明。それからも、家族の願いもむなしく彼女の記憶は次第に薄れていく。そんなある日、アリスはまだ症状が軽かった時期に自らパソコンに残したビデオメッセージを発見。画面の中の自分が語ることを実行しようとする。

 一番の敗因は家族の描き方が全然なっていない点だ。深刻に受け止めるべき事態であるにもかかわらず、皆どこか及び腰で、ハッキリ言って“軽く”考えているとしか思えない。せいぜいアリスのために家政婦を一人雇うぐらいで、万全な介護体制を敷くとか、来るべき別れの時に備えるとか、そういうことはほとんど示されない。アリスは大学に勤めていたし、夫は医学研究者であるから決して治療費にも困るような環境ではないはず。にもかかわらず、この成り行き任せの悠長さはいったい何だ。

 極めつけは、前後不覚になりつつあるアリスを放置して、ダンナは自分一人で栄転のために遠くに引っ越すというくだりだ。結局、この夫にとっては妻の病気も他人事でしかなかったということか。ならばそれ以前に夫婦のギクシャクした関係を描き出してしかるべきだが、そういう気配もなかった。

 アリスには3人の子供がおり、彼らの間で誰が母の面倒を見るのか等の揉め事ぐらいは勃発してもおかしくないと思うのだが、それも無し。アリスが患っているアルツハイマー病は遺伝性で、長女は将来的な発病が確実であることが判明するのだが、当然起こるはずの修羅場や愁嘆場も完全スルーされている。わずかにハネっ返りの次女が進路に関して悩む程度で、とにかくこの家族の有り様はまるで現実的ではないのだ。

 監督リチャード・グラッツァーの仕事ぶりは全然ピリッとせず、平板すぎる展開に終始。特にアリスが自らのビデオメッセージ通りの行動を取ろうとする場面は本作のハイライトであるはずだが、全く盛り上がらない。主演のジュリアン・ムーアは本作でオスカーを獲得したが、大した演技ではない。受賞は彼女のこれまでの実績に対する功労賞という意味合いか。

 夫役のアレック・ボールドウィンは大根。長女を演じるケイト・ボスワースにはロクな見せ場も無い。わずかに目立っていたのが次女に扮したクリステン・スチュワートだが、私は彼女の御面相が大嫌いなので(笑)、見ていてテンションが下がる一方だった。
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「ワンダー・ボーイズ」

2015-07-17 06:27:06 | 映画の感想(わ行)

 (原題:Wonder Boys )99年作品。カーティス・ハンソン監督が本作の前に撮った快作「L.A.コンフィデンシャル」の好調ぶりがここでも持続しているようで、一時たりとも退屈させない上出来のドラマに仕上げられている。

 ペンシルヴェニア州の地方都市にある大学で教鞭を執る文学部教授のグレイディは、若い頃は文壇の風雲児として知らぬ者はいなかったほどの存在だったが、今は長いスランプから抜け出せず、7年前から書き始めた大長編小説も完成する気配がない。折も折、妻は家を出て行き、しかも不倫相手の学長夫人サラから妊娠を告げられてしまう。さらには新作を催促する編集者テリーもやってくる始末。

 そんな中、テリーとパーティに出かけたグレイディは、教え子のジェームズが巻き起こした(学長がらみの)大きなトラブルに遭遇する。何とか場を収めようと右往左往する彼らだが、やがてジェームズがかつてのグレイディのような天才ライターであることを知るようになる。

 さすがこの監督は“大人”である。インテリ人種の織りなす屈折した騒動の数々を、見事に抑制された語り口とスムーズな展開で見せきっている。複数のクセの強い登場人物をムラなくフォローし、それぞれのハッピーエンドを迎えるまで少しも描写力を緩めない演出の粘りには感服した。

 人生の転機は、見つけようと思えばいつでもどこでも探し当てられるものだというポジティヴな視点を、決して大仰にならずにソフィスティケートなタッチで提示する。その絶妙なさじ加減には舌を巻くばかりだ。

 主演のマイケル・ダグラスは、マジメくさった顔をしてシッカリと笑いを取っていく妙演。昔は一世を風靡したが、オッサンになって才能が枯れた今は身の振り方も掴めないダメ男ぶりが絶品だ。ジェームズ役のトビー・マグワイア、テリーに扮したロバート・ダウニー Jr.、サラ役のフランシス・マクドーマンドと、脇も芸達者が揃っている。ダンテ・スピノッティのカメラも素晴らしく、これはこの時期を代表するアメリカ映画の収穫と言えそうだ。
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「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」

2015-07-13 06:20:03 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Avengers Age of Ultron)前作に比べると大幅に落ちる内容。とにかく脚本がヒドい。あまりのいい加減さに途中退場したくなる。特殊効果やキャストのギャラにカネを注ぎ込むよりも、マトモなシナリオライターにそれなりの報酬を与えてちゃんとした筋書きを用意させるべきであった。

 ファシスト集団ヒドラの残党が“ロキの杖”を使い人体実験をしていることを掴んだアベンジャーズの面々は、東欧ソコヴィアの研究施設を急襲。人体実験で特殊能力を得た姉弟に苦戦しながらも、杖を奪還する。アイアンマンことトニー・スタークとハルクことブルース・バナーは、杖の先に付いている石に人工知能らしきものが存在することを発見。スタークはこれを使い世界的な平和維持システムであるウルトロン計画を押し進めようとする。

 ある夜、アベンジャーズのメンバー全員が留守の間に、石の中の人工知能が突然ウルトロンとして覚醒する。ウルトロンは地球を救うためには人類を絶滅させなければならないと勝手に合点し、研究所にあった部材で自らの身体と手下のロボット軍団を建造。アベンジャーズと敵対する。

 先走った科学者が良かれと思って作ったロボットや人工知能や新種のウイルスなどが人類に対して牙を剥くというハナシは、さんざん使い古されたネタであり新味の欠片もない。アメコミの映画化作品に限っても、ついこの間「アイアンマン3」と「X-MEN フューチャー&パスト」で扱ったばかりであり、いったい何を考えてこの企画を通したのか理解に苦しむ。

 この陳腐な題材を糊塗するかのごとく、各メンバーの過去に関する(元ネタを知らない者には意味不明の)モチーフや、要領を得ないアベンジャーズ同士の反目の蒸し返しなどが挿入され、そして後半にジャーヴィスとかいうワケの分からないキャラクターが“参戦”してくるに及び、ドラマは混迷の度を増してくる。異次元世界からの侵略に一致団結して立ち向かうという、前作のシンプルな構造とは大違いの散漫な筋書きだ。

 大金を掛けただけあって活劇シーンは派手だが、撮り方が一本調子なのですぐに飽きる。いかにも“全部CGで処理しました”と言わんばかりのチャラチャラした動きの連続は、目が疲れるだけでカタルシスも希薄。監督はジョス・ウェドンが連続登板しているが今回は不調のようで、メリハリの無い展開に終始している。

 ロバート・ダウニー Jr.をはじめクリス・ヘムズワース、マーク・ラファロ、クリス・エヴァンス、スカーレット・ヨハンソン、ジェレミー・レナーといったお馴染みの面々も“低調な顔見世興行”の域を出ず、新加入のエリザベス・オルセンの不細工ぶりも盛り下がるばかり。次作があるのかどうかは不明だが、もし出来るとしたらもっとシッカリと作ってもらいたい。
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「ノー・マンズ・ランド」

2015-07-12 06:20:02 | 映画の感想(な行)

 (原題:No Man's Land )2001年作品。舞台劇の雰囲気を持つ異色の戦争映画で、その年の米アカデミー賞外国語映画賞を獲得している。だが、3人の兵士が留まる塹壕を中心にしたキャラクター配置に幾分図式的なものを感じ、諸手を挙げては評価できない。

 93年6月、霧の中で道に迷ったボスニア軍兵士のチキは、ボスニアとセルビアの中間地帯(ノー・マンズ・ランド)に何とかたどり着く。そこへ偵察にやって来たのがセルビア軍兵士のニノ。たちまちバトルモードに突入する彼らだが、居合わせたツェラがジャンプ型地雷の上に載ってしまい、彼が動くと地雷が爆発してしまう。

 この苦境から抜け出すために、彼らは心ならずも協力するハメになる。やがて助けに来たマルシャン軍曹やマスコミ関係者の助けを得て、ついには国連軍まで出動することになるが、事態は一向に好転しない。

 あらずもがなの結末も作者のケレンが垣間見えて愉快になれず。ボスニア紛争の当事国による映画にもかかわらず意外にも切迫感が伝わらないのは、あの戦争自体がブラック・ユーモアで笑い飛ばすだけの価値しかなかったことの証明だろうか。ダニス・タノヴィッチの演出は冗長で、ブランコ・ジュリッチやレネ・ビトラヤツといった面々も馴染みが無いだけではなく、存在感も希薄だ。

 それにしても、国連軍が事なかれ主義の官僚組織として描かれている箇所は“国連至上主義”あるいは“アメリカに全て丸投げ主義”にかぶれた日本人にとっては衝撃的であろう。お為ごかしの“和平のスローガン”など、現場にいる者にとっては屁の役にも立たないのだ。我々も平和ボケから脱却して大局を見据えるように心掛けたいものである。
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「きみはいい子」

2015-07-11 07:15:50 | 映画の感想(か行)

 とても良い映画だ。観る者によっては“話の中身が甘い”と感じるのかもしれないが、これは決して事態を悲観していない作者のポジティヴなスタンスが現れていると見るべきだろう。第37回モスクワ国際映画祭で最優秀アジア映画賞を受賞したが、もっと格上の映画祭にも堂々と出品出来るだけのクォリティを保持していると思う。

 中脇初枝の同名短編小説集の映画化だ。新任教師の岡野は真面目に職務をこなそうとするが、元々強い志望動機があって教職員になったわけでもないせいか、職場での優柔不断ぶりが目立つ。そのため児童や保護者から“軽く”見られ、学級崩壊寸前になることもしばしばだ。小学校近くの大規模マンションに住む雅美は、幼い娘とふたり暮らし。夫は東南アジアに単身赴任している。近所のママ友たちとはそつなく交際しているつもりだが、家ではイライラして娘に対して暴力を振るう。同じマンションに住むママ友の一人である陽子は、そんな彼女の境遇をうすうす察しているようだ。

 小学校の通学路に面した一軒家でひとり暮らす老女あきこは、最近認知症の症状を見せるようになり、知らないうちにスーパーで商品を持ち帰ろうとして女店員に注意されたりもする。彼女の唯一の楽しみは学校の行き帰りの子供達を見ることだが、その中で自閉症の男の子はあきこに“こんにちは、さようなら”といつも挨拶をしてくれる。

 以上3つのエピソードが並行して描かれるが、ロバート・アルトマン監督作みたいに最後にひとつになって全体像を形成させるような手法は採用していない。ただ、あまり交わることはなく個々に完結しているように見えても作品の一体感が全く崩れないのは、確固としたテーマが一貫しているからだ。それはつまり“他人に優しく接すれば、それが自分にも返ってくる(その逆も真なり)”ということである。

 陳腐な御題目のように聞こえるが、ほんのちょっとの優しさや思いやりを誰かに与えることのハードルの高さ、そしてそれを成し得た後の充足感を正攻法にきめ細かに説いていく作劇は、実に説得力がある。呉美保の演出は堅牢かつしなやかで、ワザとらしさを感じさせるスキを作らないだけではなく、力任せに主題のゴリ押しもしていない。

 3つの挿話の中で一番感銘を受けるのが雅美と陽子のエピソードだ。演じる尾野真千子と池脇千鶴の演技力の高さも相まって、ドラマティックな展開で見せる。岡野に扮する高良健吾とあきこを演じる喜多道枝、女店員役の富田靖子のパフォーマンスも自然体で素晴らしい。田中拓人の音楽、ロケ地になった小樽の街を清涼なタッチでとらえた月永雄太のカメラによる映像も要チェックである。
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「エイミー」

2015-07-10 06:31:33 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Amy )97年オーストラリア映画。全く期待していなかったんでそこそこ観られたけど、特筆するような出来でもないと思う。ただ、昨年(2014年)に観た「メイジーの瞳」と似た設定でありながら、あの映画のようなドラスティックな割り切り方をしていないあたりが一種の救いかもしれない。

 8歳のエイミーは4歳の頃に、人気ロックスターだった父親のウィルがステージ上で感電死するのを目撃したのを切っ掛けに、口がきけない状態が続いていた。母のタニア(レイチェル・グリフィス)は何かと干渉してくる福祉局の役人から逃れるために、エイミーを連れてメルボルンの下町に引っ越す。



 近所に住む売れないミュージシャンのロバート(ベン・メンデルソン)は、自分の歌声にエイミーが反応していることに気付く。エイミーが治るかもしれないという希望を持ったタニアはいろいろな専門家に相談するが、ある日エイミーは福祉局の役人に見つかり、施設に送り込まれてしまう。

 だいたいこの母親は頭が悪すぎる。テメエがしっかり育てないから、ヘンな福祉事務所の連中なんかに突っ込まれるのである。それに、子供の目の前(至近距離)でタバコをスパスパ、あげくにポイ捨てするのには怒り心頭。客観的視点から見れば、こういう身持ちの悪い女が親権を獲得できるかどうかは、実に疑わしい。

 また、エイミーの父親のロックミュージシャンのコンサート場面が必要以上に長いのにも閉口した。まあ、演じているのが地元の有名歌手であるニック・バーカーなので、ここはファンサービスのつもりかもしれない。しかしながら、馴染みのないミュージシャンの平板なパフォーマンスを延々と見せられるのは辛い。それにしても、ステージ上での感電事故というのはこの映画が作られた90年代で起こることは、すでに稀だったのではないだろうか(ギターとアンプとの間はワイヤレスで繋ぐケースが大半だと思われる)。

 だが、ナディア・タスの丁寧な演出と子役のアラーナ・ディ・ローマの頑張りによって、それほど悪い気分にならずに劇場を後にすることは出来る。何より、音楽を通じて心を開いていくという筋書きは気持ちが良い。なお、音楽を担当しているフィリップ・ジャドはスプリット・エンズのメンバーらしい。80年代に一世を風靡したニュージーランドのバンドだが、日本ではさほどウケなかった。近年再結成されたという話もあるが、あの頃のサウンドには今でも根強いファンがいるのだろう。
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「ラブ&ピース」

2015-07-06 06:20:53 | 映画の感想(ら行)

 園子温監督の奇天烈な作風を承知の上で臨まないと、珍妙な失敗作にしか見えないだろう。愛をテーマに往年の特撮怪獣映画の要素を取り入れつつ、実は「トイ・ストーリー」の日本版であったという、捻りを入れすぎたドラマツルギーを笑って許せるかどうかで、本作の評価は左右される。

 主人公の鈴木良一はかつてミュージシャンを目指していたが、夢に破れて今は楽器の部品の製造会社で働いている。元々内気で仕事もさばけない彼は、職場では物笑いの種だ。ただ一人優しく接してくれる同僚の寺島裕子を好いてはいるが、まともに声をかけることも出来ない。ある日、いつもの通り良一がデパートの屋上で落ち込んでいると、露店で売られている一匹のミドリガメと目が合う。

 運命的なものを感じた彼はその亀を買い、ピカドンと名前をつけて可愛がるが、会社で同僚にからかわれピカドンをトイレに流してしまう。下水道を流れていったピカドンは地下に住む謎の老人に拾われる。そこは捨てられたオモチャやペットが人間の言葉をしゃべる異世界だった。やがて良一とピカドンに思いもよらない展開が待ちうける。

 正直言って、良一と裕子との色恋沙汰にはあまり重きを置かれていない。ピカドンを思い出して作った曲がひょんなことからヒットし、スターダムにのし上がっていく良一のサクセスストーリーに関しても通り一遍の印象しか無い。なぜか巨大化して街をのし歩くピカドンの扱い方は、なるほど昔の怪獣映画のノリだが、それほど盛り上がるわけではない。最も印象的なのは、地下に暮らす飲んだくれの老人のパートだ。

 老人の“正体”については中盤以降には分かってしまうが、捨てられても一途に元の持ち主のことを思い続けるオモチャやペットたちの心情を切々と描くあたりは泣かされる。特にフランス人形のマリアと猫のぬいぐるみのスネ公とが、凸凹コンビの珍道中よろしく外界に繰り出し、マリアがかつて売られていた店の前で感慨に浸るまでのシークエンスは出色だ。

 良一を演じる長谷川博己は同監督の「地獄でなぜ悪い」に続く怪演で、呆れつつも笑わせてくれる。裕子に扮する麻生久美子も“薄幸女優”の面目躍如で、ワザとらしいけど納得だ。老人役の西田敏行も、いつもは鼻に付く彼のクサさを本作では良い方向に作用させている。

 関係ないが、プロダクションによって良一に提供された部屋に、McIntoshのスピーカーが置いてあった。たぶん型番はXR200だと思うが、同社のスピーカーが日本のポップスを上手く鳴らせるのかどうか、少し気になるところである。
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「ディープエンド・オブ・オーシャン」

2015-07-05 06:34:44 | 映画の感想(た行)

 (原題:The Deep End of the Ocean )99年作品。アメリカで頻発する幼児失踪事件の深刻さと、親をはじめとする関係者の苦悩を描き、けっこう見応えのある映画である。ジャクリーン・ミチャードの小説「青く深く沈んで」の映画化で、「トゥルー・クライム」のスティーヴン・シフが脚色を担当。監督は「恋におちて」(84年)などのウール・グロスバードだが、彼のフィルモグラフィの中では上出来の部類である。

 88年、ウィスコシンシン州の地方都市に住むフォトグラファーのベスはレストランの支配人の夫パットに見送られ、3人の幼い子供を連れて高校の同窓会に出席した。ところが、少し目を離したすきに3歳の息子ベンが姿を消し、地元警察の捜査もむなしく、発見されずに終わる。9年後にシカゴに引っ越した一家は、ある日自宅前の芝刈りのバイトを募集したところ、12歳の少年が派遣される。ところが彼はベンの面影を強く残していた。

 調べてみると、子供を失ったばかりのベスの同窓生セシルがベンを連れ去っていたことが分かった。その後セシルはベンと結婚相手を残して世を去っていたが、夫は事情を知らずに我が子として育てていた。ベンはベスの家庭で暮らし始めるが、彼にとっては居心地はよくない。特に長兄のヴィンセントはベンの失踪を自分のせいだと思い込み、悩みを抱えたままこれまで生きてきた。やがてそんな一家に事件が起きる。

 グロスバードの演出は丁寧で、各キャラクターの内面を巧みにすくい上げる。行方不明になった子供が偶然わが家にアルバイトとしてやって来るというモチーフこそ御都合主義的だが、生みの親と育ての親との間で逡巡するベンの心境や、自暴自棄になって無茶をやらかすヴィンセントの屈託などはよく描けており、飽きさせない。

 どこをどう転んでも“誰もがハッピーになれる結末”を提示することは難しい題材だが、その中においてもストーリーの構築は健闘していると言っていい。ベス役のミシェル・ファイファーはさすがの演技。パットに扮するトリート・ウィリアムズや、警察担当者のウーピー・ゴールドバーグも良い仕事ぶりだ。子役が皆達者なのも嬉しい。

 米司法省の統計によると、行方不明者として報告される国内の18歳未満の児童は年間80万人にも上るという。暗澹たる気分になるが、本作で描かれているように、幼児失踪等に対するボランティアの結束力というのはかなりのものらしく、地道な努力が継続していることは一種の救いになっている。
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「マッドマックス 怒りのデス・ロード」

2015-07-04 06:55:39 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Mad Max Fury Road )どこが面白いのか分からない。脚本ダメ、映像ダメ、キャラクター設定ダメというこのシャシン、どこをどう見ても評価できるポイントは見つからない。褒め上げている評論家連中は、いったい何を考えているのやら。

 前作「マッドマックス サンダードーム」におけるバータータウンでの死闘を経て、再び荒野をさまようようになったマックス。最終戦争の悪影響はさらに大きくなり、資源はいよいよ枯渇して、世界は荒廃の極にあった。そんな中、彼は沙漠を支配する凶悪なボスであるイモータン・ジョーの軍団に捕らえられる。ジョーの部下である女戦士フュリオサの遠征軍に無理矢理同行させられたマックスだが、途中で彼女はジョーに反旗を翻し、仲間の女たちと共に脱走しようとする。居合わせたマックスは、フュリオサと意気投合してジョーの差し向ける軍団と戦うことになる。

 大立ち回りを演じながらの逃避行の果てにたどり着いた目的地には何もなく、結局は来た道を引き返すという、まさに極限的に芸の無い筋書きに呆れてしまう。とにかく何の捻りもなく、ただ“行って帰る”だけなのだ。そもそも、ジョーの根城にしている地区には、少なくとも大勢を養っていけるだけの食料や設備があることは最初から分かっている。ならば当てもなく荒野に飛び出す前に、クーデターを企てるなり何なりして体制を整える方が先ではないか(遠くにあるというユートピアめいたものを目指すのは、後回しにして結構)。

 売り物の活劇シーンは、ハッキリ言って予告編だけ見ればOKだ。ハデな場面の釣瓶打ちのように見えながら、展開は一本調子で退屈極まりない。もっと観る者を驚かせるようなアイデアと、メリハリを付けた演出が必要だった。

 そして最大の敗因は、マックスの存在感が限りなく小さいことだ。今回は行き当たりばったりに“反乱軍”に参加するだけで、彼が何かイニシアティヴを取って行動することは少ない。御馴染みのインターセプターと2連ショート・ショットガンが活躍することも無く、思わせぶりに挿入される過去のトラウマのフラッシュバック場面なんて鬱陶しい限り。演じるトム・ハーディの大根ぶりも相まって、映画が進むにつれて観る側のテンションが下がっていく。

 ならばシャーリーズ・セロン扮するフュリオサが目立っていたかというと、そうでもない。バックグラウンドにほとんど言及されていないため、キャラクターに深みが無いのだ。最低でもロボットアームとなった生い立ちぐらいは紹介しても良かったのではないか。

 監督のジョージ・ミラーは30年ぶりの新作に気合が入っていると思いきや、加齢による衰えが目立ち、昔のシリーズのような力強さが感じられない。とにかく、何のために作ったのか分からないような映画で、個人的には観る価値は無いと断言したい。
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「侍女の物語」

2015-07-03 06:20:48 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE HANDMAID'S TALE )89年作品。快作「ブリキの太鼓」(79年)で一世を風靡したドイツの鬼才フォルカー・シュレンドルフがアメリカ資本を加えて作成したシャシンだが、どうもパッとしない。イマジネーションの枯渇が甚だしく、同監督は以後長い低迷期に入る。

 環境汚染等で大半の女性が不妊となった近未来、崩壊したアメリカ社会の後に成立したギリアッド連邦では、わずかに残った妊娠可能な女性は全員支配者層仕える“侍女”となるように強制されていた。若い女ケイトは国外に逃亡しようとしたが失敗。夫は処刑され、幼い娘は支配者層に奪われて、侍女としての教育を受けるため施設に収容されてしまう。出所後彼女は司令官のフレッドとセレナの夫妻のもとに送り込まれ、妊活に励まされる。だが、一向に妊娠する気配が無く、セレナは彼女に運転手のニックと関係を持つことを命じる。ところが2人は愛し合うようになり、共に脱出計画を練るのだった。

 この映画で描かれる近未来は、過去の作品でさんざん描かれた典型的なディストピア。新味はまったく無い。フェミニズム的な趣向を打ち出している点がミソかもしれないが、大して効果も上がっていない。SF小説の世界ではもっと思い切った近未来の設定はいくらでも見られると思う。

 気勢の上がらない設定に引きずられてか、シュレンドルフの演出も気合いが入らない。赤い制服を着た侍女たちの群れをはじめとする新奇なモチーフも、何やら薄っぺらでワザとらしい。支配者達から逃れる際のサスペンスが盛り上がるわけでもなく、謎解きの知的興奮も無い。

 舞台はアメリカであるはずだが、どう見てもヨーロッパである点も不満。だいたい、環境汚染でほとんどの女性が不妊になったのに、男の方は別に異常がないというのはオカシイではないか。納得のいくような説明があってしかるべきである。

 主演のナターシャ・リチャードソンをはじめフェイ・ダナウェイ、エイダン・クイン、エリザベス・マクガヴァン、ロバート・デュヴァルといった面々が並んでいながら、どれも大根にしか見えないのは監督の不甲斐なさゆえであろう。坂本龍一の音楽にしても今回だけは全く印象に残らない。
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