元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地大乱」

2016-04-11 06:28:25 | 映画の感想(わ行)
 (原題:黄飛鴻 II 男児当自強)92年香港作品。正式には6本作られたこのシリーズだが、私が観たのはこの2作目のみである。シリーズ中で一番出来が良いと言われているらしいが、なるほど確かに面白い。全盛期のツイ・ハーク監督とキャスト陣が、しっかりと仕事の歯車を噛み合わせている感じだ。

 清朝末期、欧米列強に対抗する謎の邪教集団「白蓮教」や革命を画策する孫文一派、それを阻止しようとする警察当局、外国軍隊etc.が入り乱れてのストーリーの中に、信じられないクンフー・アクションが息をつく暇もなく展開する。ハーク監督得意のワイヤー・アクションも堪能できるが、やはりスゴイのは主人公の黄飛鴻を演じるリー・リンチェイ(ジェット・リー)はじめロザムンド・クワン、ジョン・チャン、ション・シンシンなどの出演者たちの身体を張ったスタントの数々だろう。



 平均台みたいな高い梁の上での格闘シーン、狭い通路での長い棒を駆使したアクション、工事現場(?)での三次元的に展開するチェイス・シーンなど、“ここまでやるか”と思わずにはいられない。香港映画ならではの出演者の人権をまったく無視した(注:これはホメているのだ)アクション演出はここでも健在である。

 さらに、冒頭とラストの夕陽をバックにした少林寺拳士たちの雄姿とか、当時の上海を再現した豪華なセット、中国の近代史も手際よく盛り込んだ、ただのB級クンフー映画には決してなっていない(風格さえある)ところに、この頃のハーク監督の手腕が感じられる。

 なお、私は本作を92年の東京国際ファンタスティック映画祭で観ている。しかもオープニング作品で、上映前のセレモニーは凝った照明と舞台演出でお祭り気分が盛り上がった。特に「男たちの挽歌」などで知られる当時の香港のトップスター、チュウ・ユンファが入場したときは会場が大騒ぎになったものだ。このイベントが今は行われていないのは実に残念である。
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「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」

2016-04-10 06:35:30 | 映画の感想(は行)
 (原題:Batman v Superman:Dawn of Justice )いわゆる“一見さんお断り”の映画である。タイトルこそバットマンの名前が先に来るが、実質的にはスーパーマンが主人公を務める「マン・オブ・スティール」(2013年)の続編だ。だから“前作”を観ていないと設定がよく分からない。さらに、バットマンはもちろんDCコミックスに出てくる各キャラクターも知っておく必要がある。単純なヒーロー物だと思って入場した観客は面食らったと思う。

 前回のスーパーマンの戦いによりメトロポリスは壊滅的なダメージを受け、大勢の犠牲者が出る。ちょうどその場に居合わせたブルース・ウェインはスーパーマンのパワーが人類の脅威になることを確信し、対抗手段を模索する。そんな中、大富豪で野心家のレックス・ルーサーはスーパーマンの弱点であるクリプトナイトの塊をインド洋から回収。さらには前作で倒されたゾッド将軍の死体を手に入れ、その細胞から究極の殺戮マシーンを作り出し、さらには策略によりスーパーマンとバットマンとを争わせて共倒れを狙う。



 メトロポリスとゴッサム・シティが隣接していることは知らなかったが(笑)、暗鬱な絵作りが目立つこの映画は明らかに「バットマン」の世界観を踏襲したものだ。しかしながら、実質的なヒーローは本来陽性キャラクターであるスーパーマンの方である。この場違いな設定を受け入れるかどうかで評価が変わってくるだろう。まあ、個人的には“どうでも良い”というレベルなのだが(爆)、脚本がモタついているのはこのシチュエーションと無関係ではあるまい。

 そもそも、この両御大を戦わせようとする筋書きに無理がある。いくらメトロポリスがガタガタになろうとも、あのままゾッド将軍達を生かしておいては、世界全体が破滅する。頭の切れる経営者でもあるブルース・ウェインはそのあたりを合点しているはずだと思ったのだが、どうもそうではないらしい。

 今回は(過去の諸作に比べて)一段と若返ったレックス・ルーサーも、いったい何がしたいのかイマイチ分からない。また、ルーサーやウェインが次に来るであろう新たな異世界からの脅威を“いつの間にか”認識しているというのも、観ていて鼻白む限りだ。



 極めつけは、大した伏線もなく終盤にワンダーウーマンが現れて主人公らの助太刀に入るところ。今後はマーヴェル・コミックの“アベンジャーズ”に対抗して“ジャスティス・リーグ”が結成される前準備かと思うが、他にもザ・フラッシュとかアクアマンみたいな日本の観客には馴染みの無い連中が思わせぶりにチラリと顔を出すというのは、何だか釈然としない。

 ザック・スナイダーの演出は実に賑々しく、湯水のようにカネを掛けたと思わせるバトルシーンを派手に見せている。スーパーマン役のヘンリー・カヴィルは堅実な仕事ぶりだが、バットマンのベン・アフレックは(垢抜けないコスチュームも相まって)大してカッコ良くない。それよりもアルフレッド役のジェレミー・アイアンズが光っていた。エイミー・アダムスやダイアン・レイン、ローレンス・フィッシュバーンといった脇の面子、そしてルーサーに扮したジェシー・アイゼンバーグ、 ワンダーウーマンのガル・ガドットも悪くない。

 おそらくは次作から“ジャスティス・リーグ”によるバトル・ロワイアルが始まるのだろうが、クリストファー・リーヴが主演した昔の明朗快活なタッチを懐かしむ私みたいなロートルの映画ファンは、お呼びでは無いということだろうか(苦笑)。ちょっと寂しい話である。
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サッカーの試合を見に行った。

2016-04-09 06:33:07 | その他
 去る4月2日(土)に、福岡市博多区の東平尾公園内にある博多の森球技場(レベルファイブスタジアム)にて、サッカーの試合を観戦した。対戦カードはホームのアビスパ福岡とアルビレックス新潟である。

 今年(2016年)から目出度くJ1に昇格したアビスパだが、上位リーグでの戦いは楽ではなく、ここまで勝ち星は挙げていない。正直な話、アルビレックスはそれほどの強豪チームではないので、ひょっとしたら勝てるのではないかと踏んでの観戦であった。しかし、その期待がもろくも崩れ去ってしまうのには時間は掛からなかったのである。



 始まって20分ぐらいまでは選手は良く動き、何度かチャンスを演出した。ところが、前半の中盤を過ぎたあたりからボールが奪えなくなってくる。41分には先制点を許し、あとは精彩の無いまま時間ばかりが過ぎ去ってゆく。

 後半に入ると、パスコースをことごとく相手に読まれ、ボールキープ率が激減。メンバーチェンジの後にサイドから攻撃の形を作ろうとはするが、ボールが前に進まない間にインターセプトされて逆にピンチになるという場面が連続する。とにかく、攻撃のパターンがシンプルに過ぎ、見ていて面白くないのだ。観客席が大きく沸くことの無いまま試合が終わり、スコアこそ1対0だったが、内容は大きく差がついていた。

 やはりJ1の舞台は厳しい。この分ではシーズンが終わる頃の“残留争い”に参加できるならまだ良い方で、ヘタすると早々に降格決定もあり得るかもしれない。まあ、今は“とにかく頑張って欲しい”としか言えないのが辛いところだ。



 もっとも、観客動員だけは昨季よりも好調だ。客の入りは良い。だが、あまりにも不甲斐ない試合が続くと客足が遠のくことはチームとしても分かっていることだろう。

 なお“始球式”に博多華丸・大吉が登場してかなりウケた。地元に縁のある有名人をこれからもどんどん呼んで、出来るだけ盛り上げて欲しい。
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「蜜のあわれ」

2016-04-08 06:20:55 | 映画の感想(ま行)

 作品世界を容認すればこの上なく興趣が尽きない映画だが、そうではない観客にとっては退屈に思えるだろう。幸いにして(?)私は本作の雰囲気を大いに堪能できた。個人的には今年度の日本映画の収穫だと思っている。

 昭和30年代。老境の作家は魅力的な少女・赤子と暮らしていた。赤子は作家を“おじさま”と呼び、彼に付きまとい、夜は二人で身体を密着させて眠る。どこか人間離れした赤子の正体は、作家が買ってきた赤い金魚だった。金魚は作家に飼われるうちに、人間の姿に変貌するようになったのだ。普通の人間には彼女の本当の姿はまったく分からず、その経緯を良く知るのは、金魚売りの男のみである。

 ある日、赤子の前に若い女の幽霊・ゆり子が現れる。ゆり子は生前に作家を慕っていたが、死因は分からないままだ。作家を挟んで奇妙な三角関係のようなものが出来上がる。一方作家は今までの生き方を自問自答し、幻想の中で早世した友人・芥川龍之介と語り合う。作家仲間達が先に逝き、震災や戦争も切り抜けた彼だが、やがて肺を病んで人生の終わりが近いことを自覚する。室生犀星の後期の小説「蜜のあはれ」(私は未読)の映画化だ。

 文字通り浮き世離れした題材で、ヘタすれば目も当てられない失敗作に終わりそうな感もあったが、赤子役に二階堂ふみを起用したことで映画のヴォルテージは一気に上昇。赤いヒラヒラした衣装もさることながら、まさに“金魚の化身”としか思えない身のこなしと観る者を引き込むような蠱惑的な表情で、老作家を籠絡する。さらに、蓄音機から流れる音楽に合わせて踊ってくれるのだからたまらない。この役を演じられるのは、今の日本映画界では彼女だけだろう。

 対する作家に扮するのは大杉漣だが、一見インテリだが実は変態という、いかにも彼らしい(笑)役柄にハマっている。ゆり子を演じる真木よう子は今回は脇役なので文句は言うまい(爆)。芥川に扮した高良健吾がまた圧巻で、たぶんこの作家はこういう雰囲気を持ち合わせていたのだろうと納得させるだけの存在感がある。金魚売りの男の永瀬正敏や、作家の愛人を演じる韓英恵も良い。

 作家が生と死の境目で垣間見た妖しい世界を鮮やかに見せる石井岳龍(元・石井聰亙)の演出は冴え、まるで迷宮に吸い込まれるようだ。加えて、北陸でロケしたレトロでファンタスティックな映像が素晴らしい。いったい何処でこんな撮影場所を見つけてきたのだろうかと、感心することしきりである。笠松則通のカメラ、森俊之と勝本道哲による音楽、いずれも言うこと無し。

 登場するキャラクターは、すべて晩年の犀星の分身に違いない。作家の矜持を保ちつつも、下世話な欲望やライバル達に対する競争心などに惑わされ、やがてそれらをみんな肯定して彼岸へと旅立ってゆく。人生の終着点はかくの如きものなのだろう。観る価値は十分にある。
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ユナイテッド・シネマ福岡が閉館。

2016-04-04 06:22:50 | 映画周辺のネタ
 今年(2016年)の3月31日をもって、福岡市中央区地行浜にある福岡ドームに併設されていたショッピングモール“ホークスタウン”の中にあったユナイテッド・シネマ福岡が閉館した。映画館だけではなく、モールそのものも閉鎖。同地区にあったライヴ会場のZepp Fukuoka(閉館は5月)やHKT48劇場も同様である。



 ホークスタウンモールはダイエーグループが2000年4月に開業。その後は三菱地所の手に渡ったが、最近は空き店舗が目立ち、集客力が落ちていた。確かに、これだけ寂れた地域に映画館を置いておく理由は見当たらず、劇場を畳むのは仕方が無かったのかもしれない。

 しかしながら、10スクリーンを擁するシネコンが無くなって、映画好きの福岡市民が受けるダメージは少なくない。この映画館は市街中心地に位置していなかったが、車が無ければアクセスが難しい郊外型でもなかった。道を隔てれば住宅地が広がり、地域住民にとっては散歩のついでにフラリと入れる身近な存在であったことは確かだろう。



 また、発足当時からときどき他劇場とは違う独自の番組を提供することでも知られていた。最近では“未体験ゾーンの映画たち2015”という特集上映の福岡での会場となったことが記憶に新しい。

 同モールは内容も新たに2018年に再出発するらしいが、そこに映画館が入ることは難しいと思う。だが、福岡は映画興行の需要が少なくない土地柄なので、近い将来どこか別の場所に再オープンすることが予想される。願わくば福岡市内、それも鉄道の駅からあまり離れていない場所で営業を再開してほしいものだ。
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「僕だけがいない街」

2016-04-03 06:35:08 | 映画の感想(は行)

 脚本が壊滅的だが、一部に見応えのある場面があり、単純に駄作として切って捨てるのは忍びない。どんなに優れていると思われる作品でも少しの瑕疵で許せなくなることもあれば、つまらない映画でもわずかに光る部分があれば印象深くなることもある。これだから映画鑑賞は面白い。

 主人公の藤沼悟は一応漫画家だがまったく売れず、生活のためにピザ屋でアルバイトする毎日だ。実は彼には“リバイバル”という特殊な能力があった。それは、周囲で重大な事件や事故が起きると、いつの間にかその数分前に時間が戻り、そのトラブルの原因を取り除くまで何度でも繰り返すというものである。その日も配達途中でリバイバルが発動し交通事故を未然に防いだ彼だが、自分が大ケガを負ってしまう。

 同僚の愛梨や上京してきた母の看病で何とか回復していくが、今度は母親が何者かに殺害される。当然のことながらリバイバルが起きるものの、今回はなぜか数分前ではなく18年前だった。どうやら母親が災難に見舞われたのは、悟が子供の頃に起こった小学生連続誘拐殺人事件が関係しているらしい。犠牲者の中には悟の同級生も含まれている。彼は事件を防ぐために奔走するのだった。三部けいによる同名コミック(私は未読)の映画化である。

 リバイバル現象は自分が被るトラブルに関しては発生しないようなのだが、そのあたりの説明が無いのは不親切。母親が殺された現場を見た後の悟の行動は、わざと自身が疑われるように仕向けているとしか思えない。しかも、タイミング良く愛梨が駆けつけてくる(苦笑)。

 愛梨はなぜか親戚の家に居候しているのだが、その事情は“いろいろあって”という一言で片付けられてしまう。ピザ屋の店長は謎の行動を取るし、そもそも犯人らしき人間が都合よくピザ屋に出入りしていたという設定は噴飯ものだ。18年前の悟の“運命”はウヤムヤになり、終盤の主人公と犯人の“対決”シーンのお粗末さに至っては脱力するしかない。

 しかし、子供時代の悟が同級生を救おうとするくだりに限っては、かなり盛り上がる。犠牲になるはずだった同じクラスの加代は、身持ちの悪い母親とその愛人から酷い虐待を受けていた。教師も児童相談所もあてにならない。悟は母親や友人達と協力して事に当たるのだが、タイムリミットが迫る中で次々と難関が立ちはだかる。サスペンスフルな展開に加え、虐待の描写がリアルで、ここだけ社会派の映画のような重みがある。この部分を膨らませて全編を再構築したら、ひょっとしたら上質の作品になったかもしれない。

 平川雄一朗の演出には特筆するようなものは無い。主役の藤原竜也は“いつもの通り”の演技である。母親役の石田ゆり子は若く見えすぎて不自然。対して鈴木梨央や中川翼らの子役陣はかなり達者。彼らの活躍が無かったら“観る価値ゼロ”と断定していただろう。なお、愛梨に扮する有村架純はパッと見た感じは“普通に可愛い”というレベルだが、仕草や表情などを加点すると“すごく可愛い”という次元にグレードアップする(笑)。仕事がコンスタントに入ってくるのも当然だと思った。
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「17歳のカルテ」

2016-04-02 06:25:21 | 映画の感想(英数)

 (原題:Girl, Interrupted )99年作品。今ではアンジェリーナ・ジョリーは一応“有名女優”として通っているが、では演技面での実績は何があるのかというと、いささか心許ない。出演作の大半がお手軽な活劇物などだ。本作はそんな彼女が珍しく演技力を発揮した一編で、映画自体の質は大したことはないが、見事にアカデミー助演女優賞を獲得している。とはいえ若手の頃の手柄であり、オスカー女優という肩書以外は現在の彼女にフィードバックしていないのは、何ともやりきれない。

 60年代。高校を卒業したスザンナは、その年の卒業生の中でただ一人大学に進学せず、無為に日々を過ごしていた。もともと神経症を患っていた彼女は、周囲からのプレッシャーに耐え切れずに無軌道な行動を繰り返し、ついには急性アルコール中毒で病院にかつぎ込まれ、そのまま精神医療施設に収容されてしまう。

 そこはメンタル障害を負った少女たちが、厳しい監視のもとに生活していた。スザンナはリーダー格のリサと仲良くなり、一緒に脱走を図る。ところが問題児のリサは塀の内側でも外でもトラブルを起こすばかり。そんな彼女の乱行を反面教師として、スザンナは次第に自分と他者との関係性を見直すようになっていく。94年に出版されたスザンナ・ケイセンによる自伝の映画化だ。

 ジェームズ・マンゴールドの演出が手緩く、表面的な描写に終始。精神病棟ではもっとシビアな場面が展開されたはずだが、まるで厳しさが伝わってこない。60年代という時代色も希薄で、映像自体も軽量級だ。同じく精神病院を舞台にした映画であるミロス・フォアマン監督の「カッコーの巣の上で」(75年)などとは比べようもない。

 そもそも、いったい何を言いたかったのだろうか。リサみたいなキ○ガイとは付き合うなということか、それともアニマル・セラピーの重要性だろうか。まあ、たぶん精神病院の中で自分を見つけ、自己に向き合って強く生きるヒロインの人間的成長をどうのこうのという、前向きなテーマを追ったものだろう。でも、こちらはそんなお題目的なスローガンだけを突きつけられて素直に感じ入るほどイノセントには出来ていない。いわゆる“自分探し”の欺瞞性なんて、とっくの昔に知っている。

 A・ジョリーが扮しているのはリサで、実に性格悪そうな御面相とゴーマンな態度が印象的だった。演じる側も乗りまくっていることが分かる。スザンナを演じているのはウィノナ・ライダーで、こちらも熱演。しかし、映画自体のヴォルテージが低いので、2人とも浮いているようにしか見えない。

 ところで、現在でも一線で仕事をしているA・ジョリーに対して、W・ライダーは本作の後に次々と不祥事を起こし、干されてしまった。いわば映画の中での設定とは逆のことが現実では進行しており、何とも複雑な気分になってくる。
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「マジカル・ガール」

2016-04-01 06:16:30 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MAGICAL GIRL)退屈きわまりない映画だ。ホメている評論家は多いが、まったくもってどこが良いのか分からない。とにかく、これだけ面白いと思える要素が全然見つからないシャシンも珍しいだろう。世界各地の映画祭で賞は取っているようだが、いずれもマイナーな映画祭であるというのも脱力する。

 マドリードの下町に住む失業中の中年男ルイスは、白血病で余命幾ばくも無い12歳の娘アリシアの願いを叶えてやりたいと思っていた。彼女は日本のアニメ“魔法少女ユキコ”の大ファンで、ルイスは娘がそのコスプレ衣装を欲しがっていることを知る。ところがその衣装はあまりにも高額で手が出ない。そんな中、彼は心に闇を抱える女性バルバラと知り合い、懇ろな関係になる。ルイスはこれをネタに彼女を強請ろうとするが、かつてバルバラと“不適切な関係”にあった元教師ダミアンがこの一件に関与してくるに及び、思わぬ事件が発生する。



 主人公の娘は日本のアニメにハマっているという設定だが、端から見ると全然そう思えない。テーマ曲に合わせてそれらしい振りを披露するものの、漫然とした空気が流れるばかりで、オタクらしいマニアックな雰囲気は皆無。単に“何となくモチーフとして採用してみた”というレベルなのだ。

 実を言えば、日本のアニメが題材として取り上げられるのだから、映画自体もそれに合わせてポップでリズミカルなタッチで展開するのだろうと鑑賞前は思っていた。しかしながら、本作にはそういうテイストは存在しない。登場人物の内面をじっくり描こうとして、結果的に何も結果が残せていないような冗長な画面が、しんねりむっつりした調子で延々と続くのみである。開巻10分ほどで眠気を催し、あとはひたすら睡魔との戦いだ。

 また、感情移入できるキャラクターが誰ひとり出てこないのにも閉口する。どいつもこいつも変に屈折していて、気色が悪い。かといって、そのマイナスオーラを映画的興趣に仕立て上げるようなメソッドも無く、平板な画面の中を面白味のない連中がウロウロするだけという、まことにつまらない展開に終始する。



 終盤近くになって取って付けたように惨劇が起こるが、その頃にはとうに鑑賞意欲を無くしていて、まさにどうでもいい感じだ。そこに至る伏線も十分張られていないのは言うまでもない。

 監督はカルロス・ベルムトという新鋭だが、この学生自主映画の失敗作みたいなシロモノを観る限り、才能は全く感じられない。出てくる役者達は、名前も憶えたくないような者ばかり。なお“魔法少女ユキコ”のテーマ曲として長山洋子のデビュー曲「春はSA・RA・SA・RA」(84年リリース)が使われているが、この曲を聴くのも初めてながら、本ナンバーが欧州製ポップスのカバーであるというのも興味深い。あの頃は外国曲の流用に鷹揚だったのだろう。
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