元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「招かれざる客」

2018-04-14 06:20:16 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Guess Who's Coming to Dinner)67年作品。第40回アカデミー主演女優賞と脚本賞の受賞作で、私は“午前十時の映画祭”にて今回初めてスクリーン上で接することが出来た。世評通りの面白さで、重要なテーマを扱っていながらドラマ運びは軽やか。良質のコメディでもある。観て良かったと思える佳編だ。

 サンフランシスコの新聞社の社主であるマット・ドレイトンの元に、娘のジョーイが久々に帰ってきた。同伴していたのは彼女の婚約者。だが、その相手ジョン・プレンティスは黒人だった。マットはかねてより新聞紙上で理不尽な人種差別に対して激烈な抗議を行い、ジョーイにもリベラルな教育を受けさせてきた。しかし、いざ娘が白人以外の男と結婚する段になると、動揺は隠せない。



 妻のクリスティは娘に理解を示すが、マットは頑なな態度を取るばかりだ。さらに、ジョンの両親もドレイトン家の夕食に招かれることになる。彼らも息子の嫁が白人になることに驚くしかなかった。気まずい空気が流れるが、若い2人の真摯な態度が少しずつ事態を好転させていく。「アメリカ上陸作戦」(66年)等で知られるウィリアム・ローズのオリジナル・シナリオを、名匠スタンリー・クレイマーが製作・監督した。

 ジョンとジョーイは、当日の夜の飛行機でジュネーヴに旅立たねばならない。その前に何としても双方の両親の承諾を取り付ける必要がある。この“タイム・リミットを介した設定”というのが、まず上手い。限られた時間の中で、マットやクリスティがどのようにして娘たちに理解を示すのか、その段取りも無理がない。

 そして、超エリートであるジョンの造型を“単なるレアケースではないか”と突っ込まれることを回避するディテールの巧みさに唸らされる。ジョンとジョーイにとって最大の障壁となるのが、それぞれの父親の“立場”である。人種的偏見は悪いことだと頭の中では思ってはいるが、親として子供が大過なく人生を送ることを望むのも当然なのだ。そのディレンマを、映画はいたずらに変化球や御都合主義的なエピソードを多用することなく、正攻法で切り崩してゆく。



 社会的な“立場”で建前論を述べるのは誰だって出来る。だが、人生の機微というのはそんな杓子定規な図式で片付けられるものではない。それぞれの両親の若い頃の出会いはどうだったのか。親子関係を“育ててやったからその分親に奉仕しろ”という損得勘定で割り切って良いのか。それらの命題から逃げること無く、映画は着実に主題を積み上げてゆく。その真摯な姿勢が嬉しい。

 クレイマーの演出は重くなりがちの題材を扱う上で、あえてコミカルなテイストを多用するという見上げたもので、各キャストの芸達者ぶりも併せて大いに笑わせてもらった。マット役のスペンサー・トレイシーとクリスティに扮するキャサリン・ヘップバーンは余裕の演技。ジョンに扮するシドニー・ポワチエも上手いが、実生活でも彼は後に白人女性(女優のジョアンナ・シムカス)と結婚することを考え合わせると、なかなか感慨深い配役だ。

 またジョーイ役のキャサリン・ホートンはヘップバーンの姪でもあるが、天然ぶりを全面展開した妙演で感心した。サム・リーヴィットのカメラが捉えたサンフランシスコの風景。テーマ曲の「ザ・グローリー・オブ・ラヴ」も印象深い。
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「ワーキング・ガール」

2018-04-13 06:29:59 | 映画の感想(わ行)

 (原題:Working Girl)88年作品。軽妙なコメディなから、働く女性を主人公にした映画では上質の部類である。一つ間違えば昔のトレンディ・ドラマのような底の浅さを露呈するような物語の構図だが、キャストの敢闘と名人芸的な演出により、幅広い観客にアピールする内容に仕上がった。また、時代を感じさせるエクステリアも興味深い。

 ニューヨークの投資銀行に勤務するテスは、仕事熱心で努力家だが、低学歴なので会社からはなかなか認めてもらえない。それどころか日々受けるセクハラに悩まされていた。そんな彼女の新しい上司キャサリンは、テスと同世代ながら有名大学卒で幹部候補生だった。一見テスにフランクに接するキャサリンだが、その実テスを軽く扱っていた。

 そんな中、キャサリンがスキーで骨折し、その間テスは彼女の留守を守ることになる。テスがキャサリンの仕事のファイルをチェックしていると、以前自分が提案したアイデアが流用されていることが分かる。不愉快な気分になる一方で大いに発奮したテスは、取引先の関係者ジャックと接触し、M&A事業を独自に進めていく。

 テスとジャックは、一緒に仕事をするうちに急接近するという筋書きは予想通り。ジャックは元々キャサリンと付き合っていたが、とっくの昔に彼は熱が冷めていて別れを切り出すばかりだったという設定も含め、ラブコメの王道路線が展開する。ただしそれらが全然あざとく見えないのは、各キャラクターに愛嬌があるからだ。

 頑張り屋のテスは応援したくなる。演じるメラニー・グリフィスは快調で、したたかな女をチャーミングに見せる。特に半裸で部屋の掃除をする場面は最高だ(笑)。キャサリンに扮するのはシガニー・ウィーバーだが、アグレッシヴでどこか抜けているキャリアウーマンを楽しそうに演じる。ジャック役のハリソン・フォードが珍しく“二枚目キャラ”に徹しているのも面白い。ケヴィン・スペイシーやジョーン・キューザック、アレック・ボールドウィンといった脇の面子も万全だ。

 マイク・ニコルズの演出はスムーズで淀みが無く、カーリー・サイモンによる有名な主題歌も効果的だ。女性陣の80年代らしい厳ついファッションには笑ってしまうが、予定調和ながら屈託のない作劇とエンディングが罷り通ってしまうのもこの時代らしい。本当にあの頃は良かったなァ(・・・・と、心ならずも年よりじみたコメントを残してしまった ^^;)。
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「坂道のアポロン」

2018-04-09 07:01:03 | 映画の感想(さ行)

 近ごろ氾濫している毒にも薬にもならない若者向けラブコメ作品とは一線を画す、青春映画の快作だ。しかも、邦画ではあまり成功例の無い、音楽を重要モチーフにしてサマになるようなレベルに仕上げている点は、大いに評価して良いだろう。

 1966年。家庭の事情で横須賀から長崎県佐世保市の伯母の家に移り住むことになった高校生の西見薫は、家の雰囲気にも新しい学校にもなかなか馴染めない。しかしひょんなことで学級委員の律子、そして札付きの不良として皆に恐れられている千太郎と懇意になることが出来た。3人に共通する趣味は音楽である。薫はクラシックピアノを習っていたが、千太郎のドラムが叩き出すジャズのサウンドに魅せられる。また律子はレコード屋の娘で、店の地下には楽器の練習場が用意されていた。

 薫は律子に恋心を抱くようになっていたが、彼女が好きなのは千太郎であることを知り、思い悩む。それでも薫は千太郎との演奏を楽しみ、教会でのイベントでは律子を加えてのライヴを敢行する運びになったものの、思わぬ事故が発生して3人の関係は一旦終わりを告げる。小玉ユキの同名漫画(私は未読)の映画化だ。

 薫たちの色恋沙汰に関しては、あまり深く突っ込んで描かれない。だが、そのことをもって本作を批判する必要は無いと思う。この映画の真の主人公は音楽であり、音楽こそが不器用な生き方しか出来ない青春期の彼らを支え、希望を見出すための媒体になっていることを何の衒いも無く差し出す。その思い切りの良さが実に好ましい。

 薫が初めて参加する地下室でのセッションで、及び腰だった彼に千太郎が音楽に身を委ねて飛び込むように促し、やがてリズムにピアノの旋律が乗っていく様子の躍動感はかなりのものだ。そして圧巻は、文化祭での薫と千太郎との掛け合いだ。まるでスクリーン上に祝祭が出現したかのようなヴォルテージの高さ。本年度の日本映画を代表する場面の一つだと断言したい。

 三木孝浩の演出には特段才気走った部分は見られないが、実直に破たん無くストーリーを追っている姿勢は好感が持てる。そして主演の3人、知念侑李と中川大志、小松菜奈の健闘には目を見張る。特に中川は面構えといい、しなやかな身のこなしといい、かなりの素質を感じさせる。

 ただし、それ以外のキャラクターを描き込む余裕が無かったのは(上映時間の都合もあり)仕方がなく、ディーン・フジオカや真野恵里菜、中村梅雀ら脇のキャストにはあまり光が当たっていない。そして、エンディングテーマ曲をジャズナンバーではなく小田和正の歌にしたのも失態だろう。とはいえ、レトロな佐世保の町の佇まいを味わえることも含めて、鑑賞後の満足度は高い。ジャニーズ主演のお手軽ドラマだと思って敬遠すると、確実に損をする。
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「魅せられて四月」

2018-04-08 06:32:51 | 映画の感想(ま行)
 (原題:ENCHANTED APRIL )92年イギリス作品。文字通り、4月の明るい陽光に晴れ晴れとした気分になれる映画だ。人間、いくら“逃げずに逆境に立ち向かえ!”と言われても、限界はある。それよりも、ちょっと環境を変えるだけで解決の糸口が見つかることだってあるのだ。そんな楽天的なスタンスが実に好ましい。

 1920年代、ロンドンに住む主婦ロッティ・ウィルキンズは、夫との愛も冷めて殺伐とした日々を送っていた。そんな中、新聞記事に“地中海に臨むイタリアの小さな城を4月いっぱい貸します。家具、使用人付き”という一文があるのを見つける。彼女は友人の主婦ローズおよび賃貸料60ポンドを捻出するため社交界の花形であるキャロライン・デスターと、気位の高い老婦人ミセス・フィッシャーを誘い、4人でイタリアに出発する。



 暗くて肌寒いロンドンとは打って変わった風光明媚な地中海沿岸の城に到着した4人は、リフレッシュしたように明るく振る舞い、互いに親しくなる。ロッティは夫のメラーシュを呼び寄せ、ローズを気に入った城の持主ブリッグスもやって来る。ローズの夫フレデリックも現れるが、実は彼の目当てはキャロラインだった。そんな各人の微妙な屈託や下心は存続しつつも、皆それぞれ折り合いをつけ、前向きな気分で4月を過ごす。オーストラリア出身の作家エリザベス・フォン・アーニムによる同名小説の映画化だ。

 とにかく、陰鬱な雨が降り続くロンドンと目の覚めるように美しいイタリアとのコントラストが見事だ。一行がずぶ濡れになって浜辺の城にたどり着いた翌朝、輝く海に向かってロッティが窓を開けたその瞬間、観る者を鮮やかな南欧の春に呼び込む、その呼吸に感心する。

 マイク・ニューウェルの演出は手堅く、ミランダ・リチャードソンをはじめジョーン・プローライト、ポリー・ウォーカー、ジョシー・ローレンス、アルフレッド・モリーナ、ジム・ブロードベントという名優を並べ、シーナ・ネイピアによるハイ・クォリティな衣装デザインも忘れがたく、鑑賞後の満足度は高い。難を言えば、登場人物が突然自分の心境をモノローグで語り出すケースが目立つことか(それらは映像で語るべきものであろう)。それさえ無ければ、傑作になったところだ。
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「リメンバー・ミー」

2018-04-07 06:26:50 | 映画の感想(ら行)

 (原題:COCO)良いところもあるのだが、釈然としない部分が大きく、全体としては“中の下”の出来だ。少なくとも、アカデミー賞を獲得するほどの作品とは思えない。もっとも、彼の国では劇場用長編アニメーションの本数自体が多くないと思われるので、主要アワードは大手製作プロダクションの“持ち回り”なのかもしれない。

 主人公は、メキシコの田舎町サンタ・セシリアに住む12歳の少年ミゲル。彼の家では、音楽は禁止されていた。ミゲルの高祖父にあたる人物が、ミュージシャンに専念するため妻子を捨てたという過去があるからだ。しかしミゲルは音楽が大好き。往年の大歌手エルネスト・デラクルスに憧れ、将来は音楽家として世に出ようと思っていた。

 年に一度先祖が会いに来るという“死者の日”に、ミゲルは音楽コンテストに出ようとするが、自前のギターは祖母に壊されてしまった。そこでデラクルスの遺品のギターを拝借しようとするが、その瞬間、彼は死者の国に迷い込んでしまう。日の出までに先祖に許しを請い、承諾を得なければ元の世界に戻れなくなる。ひょっとするとデラクルスが自分の先祖ではないかと思い当たったミゲルは、彼を探すため冒険の旅に出る。

 きらびやかな死者の国の描写や、ミゲルの生い立ちが明かされる部分、そして音楽を通じて主人公が家族と和解するあたりの段取りは上手い。そして音楽そのものの使い方も万全だ(字幕版で観て良かったと思う)。しかしながら、出てくる連中の大半がガイコツだというのは、正直言って気色が悪い。まあ、メキシコの“死者の日”のシンボルがガイコツなので仕方が無いのかもしれないが、私としては生理的に受け容れがたい。

 そして最大の難点は、死者を思い出してくれる生者がいなくなってしまうと、死者の国から消滅してしまうという設定だ。これはかなりキツい。いくら惜しまれて亡くなっても、よほどの有名人でもない限り、当人を覚えている者がずっと存在しているわけではない。いつかは消滅する運命だ。つまり、この作品世界では亡者は2度の“死”を体験しなければならず、しかも2回目の“死”は“無”に帰すのだ。それはあまりにも理不尽ではないか。

 ならば身寄りの無い者や誰にも看取られないまま世を去った者は、死者の国にも行けず、魂は直ちに抹消されてしまうということか。そんな救いの無いシチュエーションを差し置いて、家族愛ばかりを謳い上げるのは、実に空々しいと思う。

 リー・アンクリッチとエイドリアン・モリーナの演出はテンポが良く、各キャラクターも“立って”いるのだが、作品の設定が斯くの如しなので評価するわけにはいかない。
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「ホワイトルーム」

2018-04-06 06:29:57 | 映画の感想(は行)
 (原題:White Room)90年作品。日本での一般封切りはされておらず、私は91年の東京ファンタスティック映画祭で観ている。

 有名な女性歌手が通り魔に殺害される場面を見てしまった青年。犯人は間もなく逮捕されるが、その事件現場の女性の声がレコードで聴く歌手の声と違っていたことから、彼は声だけを担当したゴースト・シンガーが別にいるのではないかと調べ始める。やがて知り合ったそれらしき女性と親密になっていく彼だが、この事実を嗅ぎ当てたマスコミや周囲の人々が2人を思わぬ窮地に追い込んでいく。

 監督は第2回東京国際映画祭で「私は人魚の歌を聞いた」(87年)という目の覚めるような秀作を出品し、映画ファンを驚かせたカナダの女流パトリシア・ロゼマ。私としても期待していたのだが、はっきり言ってハズレだった。散文的な展開と鮮烈な映像美で話題をさらった前作の評価からのプレッシャーか、どうも気勢の上がらない出来映えだ。



 殺人事件の顛末などはどうでもよく、主人公のヒロインに対する微妙な心理の揺れを得意の耽美的テクニックで綴ってくれればよかったのだが、今回はエンタテインメントに映画の重点を振った作りで、それもあまり脚本の出来が良くなく、結果としてストーリーラインと作者の持ち味がとけ合わないままバタバタと終わってしまった印象を受けた。

 それでもハイヴィジョン合成(だと思う)を活用したSFXは優秀で、同年のアボリアッツ・国際ファンタスティック映画祭では技術関係の賞をもらっているが、こう話が面白くないと“それがどうした”と言いたくなる。

 なお、キャストはケイト・ネリガンをはじめモーリス・ゴーディン、マーゴット・ギダー、シェイラ・マッカーシーと、けっこう多彩だ。ロゼマ監督は寡作ながら、現在もフィルモグラフィを積み重ねている。派手さの無い作風で、日本で封切られても限定公開だが、近年作られた作品は面白そうなので観てみたい。
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「素敵なダイナマイトスキャンダル」

2018-04-02 06:33:25 | 映画の感想(さ行)

 さっぱり面白くない。別に、これ見よがしのケレンに走るのはダメだという決まりは無いが、出してくるモチーフの大半がツボから“外れて”しまっては、笑うに笑えない。盛り上がりも無ければキャラクターの掘り下げも浅く、眠気を堪えて2時間以上もスクリーンに向き合うのは、正直苦痛であった。

 60年代後半。高校を卒業した末井昭は、岡山県の田舎町から大阪の工場に集団就職したが、過酷な仕事に耐えきれずに川崎市の父親の元に身を寄せる。だがそこも居心地が悪く、東京のデザイン専門学校に入学。やがてデザイン会社に入るが、ひょんなことからエロ雑誌の世界へと足を踏み入れる。77年に編集長として「ニューセルフ」を刊行。カメラマンの荒木経惟ら個性的なメンバーが集まって雑誌は売れるが、わいせつ文書販売容疑で発禁となってしまう。それでも懲りない末井は81年に「写真時代」を発刊。一世を風靡する。稀代の編集者として名を馳せた、末井の自伝の映画化だ。

 末井の母は、不倫の末に若い男とダイナマイト心中している。それを強調するかの如く、劇中には何度も母親の姿が映し出されるのだが、そのことが末井の生き方にどう投影されているのか、映画は十分に描けていない。単なる主人公の“昔話”以上の価値は見出されないのだ。

 それに末井が絵が上手かったことは分かるとしても、どうしてエロ雑誌の製作に邁進するようになったのか不明である。主人公の行動規範が説明されないまま、70年代から80年代にかけての時代風俗ばかりを矢継ぎ早に繰り出しても、白々とした空気が流れるだけだ。しかも、その頃の時代描写自体も上手いとは思えない。

 猥雑ではあったが、景気は決して悪くはなく、たとえトラブルに遭遇しても“何とかなるだろう”と楽天的に構え、実際に“何とかなってしまう”ような雰囲気が横溢していたあの時代。そんな空気感をこの映画は少しも再現出来ていない。ただ末井たちの無軌道な言動と、ちっともエロティックではない女のハダカが並べられているだけである。それに末井はサックス奏者としても名を馳せ、後にパチンコ雑誌の発行を指揮する立場にもあったが、そのあたりの描写も取って付けたようだ。

 冨永昌敬の演出は平板で、画面が狂騒的である割にはヤマもオチも無い。主演の柄本佑をはじめ峯田和伸、松重豊、村上淳、尾野真千子、嶋田久作と“濃い”面々を集めているのに、実にもったいない話である。

 しかも、末井の妻に扮する前田敦子は相変わらずの大根。“AKB一派は映画に出るな!”とのシュプレヒコールが今回も私の心の中で響き渡った(笑)。唯一興味を覚えたのが、末井の不倫相手のメンタルの怪しい女を演じた三浦透子。若いのに体当たりで汚れ役を引き受けた度胸の良さは評価して良い。
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「トイズ」

2018-04-01 06:30:00 | 映画の感想(た行)
 (原題:TOYS)92年作品。封切り時の世間の評判は芳しくなかったようだが、実際観たらなかなかこれが面白い。真の意味で大人も子供も楽しめる良心作だと思う。子供たちに夢を与えることを生きがいとした前社長(「雨に唄えば」のドナルド・オコナー!)が亡くなって、おもちゃ工場は軍国主義者の弟リーランド(マイケル・ガンボン)に乗っ取られる。おもちゃサイズで本物の殺傷能力のある兵器を大量生産しようという陰謀を知った前社長の息子(ロビン・ウィリアムズ)は、反撃に立ち上がる。

 まずは画面の造形に圧倒される。ダンボみたいな工場の外見や大きく蛇行する通路、おもちゃのカルガモ親子が道を横切るのを待つ社員、ミュージカル仕立ての工場の作業風景、大空を描いた壁紙が張ってある大きな部屋の中にポツンとある寝室、巨大な箱から自動的に組み立てられて出てくる主人公の屋敷、果てはルネ・マグリットの絵を引用したミュージック・ビデオのパロディまである(これは実に楽しかった)。そう、これは飛び出す絵本の映像化なのだ。



 ミニチュアと現実のシーンを巧みに合成し、ファンタスティックな世界を作り上げたのは、「ラストエンペラー」でオスカー受賞のフェルディナンド・スカルフィオッティ。明るくポップなおもちゃ工場の場面と、暗く不気味な軍人の部屋との対比も見事だ。そして工場の回りは見渡す限りの草原。どこか地球以外の天体を思い起こさせる。

 キャラクターも徹底的にユニーク。ロビン・ウィリアムズ扮する主人公レスリーはおもちゃ作りにしか興味のない、まさしく“おもちゃ”みたいな人物だ。煙を吐き出し、奇妙な音の出るジャケット(これは私も欲しい)に身をつつみ、ギャグを飛ばしまくる。

 ジョーン・キューザック演じるレスリーの妹は、それに輪をかけたマンガみたいな怪人物。自らが着せ替え人形のモデルを担当するというのは笑った。リーランドの息子を演じるのはなんとLL・クールJ。特殊工作員で、カメレオンのごとく神出鬼没。レスリーの恋人になるロビン・ライトも本作では可愛い。アカデミー賞候補になったアルバート・ウォルスキーによる衣装が素晴らしい。

 何ら武器を持たないおもちゃたちが、ハイテク兵器おもちゃに踏みにじられていくクライマックスは、けっこうシビアーだ。背景に流れる反戦平和のメッセージが無理なく的確に観客に伝わっていると思う。それにしてもよくこれだけユニークなおもちゃを集めたものだ(当時のキネマ旬報の記事によると、ほとんどが日本製らしい)。人によってはバカバカしいと毛嫌いしそうな題材だが、その題材を多額の製作費と贅沢なスタッフでこれだけの作品に仕上げたバリー・レヴィンソン監督の力量に感心した。
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