元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

最近購入したCD(その36)。

2019-05-12 06:35:27 | 音楽ネタ
 今回は何と、現役の女性アイドルグループ三題(笑)。まず紹介したいのが、大阪出身の4人組PassCode(通称:パスコ)のメジャーレーベルでの2枚目のアルバム「CLARITY」である。

 ロックをアイドルに歌わせるという方法論は、今さら珍しくもない。それらしいナンバーは昔からいくつも存在していたし、BABYMETALのようにワールドワイドな人気を獲得した例だってある。だが、このPassCodeのサウンドのロックに対するハマり具合は尋常ではない。ただハードでラウドなだけではなく、女性ユニットとしては屹立したオリジナリティを獲得している。



 基本はEDMをベースにしたヘヴィロックだが、曲の途中で(プログレッシブ・ロックを思わせる)転調や変拍子が突如として現出し、まさに先の読めない展開でスリル満点だ。特に印象付けられるのは、メンバーの一人である今田夢菜の“デスメタル声”でのシャウトで、最初聴いたときには一体何が起こったのか分からず呆気にとられてしまった。

 また、ハード一辺倒ではなく時折メロディの美しさを感じさせるのも見事で、アルバム全体通して聴いても飽きることは無い。それからネット上でライブの映像もチェックしたが、剣呑な雰囲気が充満していて実にスリリング。ロック好きならばチェックしておいて絶対に損はないだろう。

 2015年に結成された4人組フィロソフィーのダンス(通称:フィロのス)のサード・アルバム「エクセルシオール」は、最近私のリスニングルームのヘビーローテーションになっている。



 彼女たちのサウンドは、ハッキリ言って“オヤジ殺し”である(笑)。70年代から80年代にかけて流行ったソウル、ファンク、ディスコ、シティ・ポップ、R&Bなどを現代的味付けで展開させている。そして全体に流れるブラックミュージックのフィーリングが何とも憎い。昔若い頃にこの手の音楽を半ば気取って聴いていた今のオッサンどもは、このフィロのスのパフォーマンスに接すると一発でマイってしまうだろう。

 面白いのは、このグルーブは各メンバーのキャラが恐ろしく“立って”いることだ。見た目が個性的であるのはもちろん、声の質がそれぞれ全く異なる。特に、本格派ソウルシンガーみたいな日向ハルの野太い声と、十束おとはの典型的“アニメ声”が同一ナンバー内で交互に現れるのを目の当たりにすると、軽い目眩さえ起こしてしまう。それでいて4人のチームワークは万全で、この4人でしか出せないサウンドを提供しているのは見上げたものだ。

 そして曲のクォリティの高さには驚愕する。どのナンバーもポップに練り上げられており、捨て曲が無い。そして繰り返し聴くごとに味が出てくる。正直言って、今一番観てみたいのが彼女たちのライブだ。

 2016年にデビューした4人組ヤなことそっとミュート(通称:ヤナミュー)のサウンドも、ある意味“オヤジ殺し”だ。しかしながら、前述のフィロのスとは違い、少々聴き手を選ぶ。この手の音に反応するのは、90年代から2000年代はじめに一世を風靡したグランジ、オルタナティヴ系のロックにハマっていたオッサンどもである。



 購入したのは2枚目のアルバム「MIRRORS」だが、グランジ系に加えてシューゲイザー系やエモ、スクリーモ系の要素も取り入れ、アグレッシヴな展開を見せている。特に印象付けられるのがギターワークで、このスピード感と絶妙な歪み具合は、まさにグランジ。確かなテクニックに裏打ちされ、実にカッコイイのだ。

 この暴力的なギターをバックに、浮遊感のある女性ヴォーカルが重なる様子は、まさに唯一無比の世界観を獲得している。各曲の組み立て方は上質で(一つのナンバーの中で何度も山場がある)、高踏的な歌詞も相まって、ロックアルバムとしても実に良く出来ていると思う。とにかく最初から最後まで気を抜けないヴォルテージの高さで、聴いた後の満足感は大きい。

 さて、いままでアイドルソングに各音楽ジャンルの要素を盛り込ませた例はたくさんあったが、あくまでそれは“○○風味のアイドル歌謡”に過ぎなかった。ところが今回挙げたグループのサウンドは“アイドル風味の○○”だ。つまり各ジャンルでアイドルという形状を取り入れ、出来上がった音楽はそのジャンルの方向に完全に振り切っている。

 いくら手練れの音楽ファン(≒オッサン)が喜ぶサウンドだといっても、裏で支えるスタッフは若手ばかりだ。だから当然若い層に向けてのアピールを想定している。私は最近知ったのだが、こういうコンセプトを持つアイドルを“楽曲派”と呼ぶらしい。もちろん、本人達にはその音楽スタイルを使いこなすだけのスキルが要求される。また“アイドルではなくアーティストの領域を指向している”というわけではなく、ちゃんとアイドルらしい瑞々しさや甘やかさも備えている。

 “楽曲派”のユニットは今回挙げた3つ以外にも複数存在するが、いくらアイドルでも厳密に言えばミュージシャンの端くれである。だから自らが歌う楽曲に関しては水準の高さを望むのは当然の話だ。その意味では“楽曲派”こそが本来のアイドルではないかという気がしてくる。そういえば昔のアイドル(80年代前半ぐらいまで)は音楽好きが多く、プロデュースする側もそれに応えていたように思う。

 最近では楽曲やパフォーマンスよりも握手会などで愛嬌を振りまくことが重要視され、無意味な足の引っ張り合いの挙げ句、暴行事件やイジメ問題などを引き起こしている“極端な多人数のグループ”が目立つ。そういう“ひと山いくらのビジネス”が今後も長く通用するとは思えない。ある意味アイドルの“王道”である“楽曲派”の大手メディアへの露出を望みたいところだ。
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「荒野にて」

2019-05-11 06:28:41 | 映画の感想(か行)
 (原題:LEAN ON PETE)時代設定が分からないので、観ていてストレスが溜まる。当初は登場人物達は携帯電話を持たず、画面に出てくるテレビもブラウン管方式なので、てっきり80年代か90年代前半の話だと思っていた。ところが劇中で“90年代は良かった”などというセリフが出てきて、ならばこれは2000年代初めかと思いきや、終盤には現代風の小道具が用意されている。斯様に時制が曖昧であることは、作劇に一貫性が乏しいことを示していて愉快になれない。

 15歳の少年チャーリーは、職を転々とする父と共にポートランドに越してきた。母はとうの昔に家を出て、何かと面倒を見てくれた伯母のマージーもチャーリーが12歳の時に父と大ケンカし、そのまま行方知れずになる。ある日、近所の競馬場で厩舎のアルバイトの職を得たチャーリーは、オーナーであるデルから競走馬リーン・オン・ピートの世話を任される。その仕事がすぐに馴染んだ彼だったが、父がトラブルに巻き込まれて死んでしまう。



 身寄りが無くなったチャーリーは、そのままピートの遠征に同行。ピートは年を取っており、やがて殺処分の決定が下される。怒ったチャーリーは、ピートを乗せたトラックを盗んで逃走。かつてマージーが住んでいたというワイオミング州を目指す。

 原題が馬の名前なので、てっきりピートとチャーリーの関係をじっくり描くのかと思っていたら、後半にあっけなくピートと別れてしまう。それにしても、チャーリーの言動は承服しがたい。父親が亡くなった時でもヘンに淡々としているし、ピートと離れる際もあっさりしたものだ。

 加えて平気で無銭飲食をやらかすし、他の車からガソリンを抜き取ったりする。果ては(いくら自分の金を取り戻すためとはいえ)ホームレスに暴行をはたらいて重傷を負わせる。なおかつ反省の色は見られず、刑務所に入るのをイヤだとゴネたりもする。ハッキリ言って、まったく共感できない。アンドリュー・ヘイの演出は要領を得ないままで、テンポも悪い。

 本作で第74回ヴェネチツィア国際映画祭で新人俳優賞を獲得したチャーリー・プラマーはけっこう良い素材だと思うのだが、個人的には映画では活かされていないように思う。ただ、スティーヴ・ブシェミやクロエ・セヴィニー等の脇の面子は良かった。またマウヌス・ノアンホフ・ヨンクのカメラによる荒野の風景はとても美しく、それなりに評価出来る。
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「アフター・アワーズ」

2019-05-10 06:32:52 | 映画の感想(あ行)

 (原題:AFTER HOURS )85年作品。マーティン・スコセッシ監督作としてはかなりの異色作だと思う。もしかするとキャストに名を連ねているチーチ&チョンのテイストが入っているのかもしれないが、観ていて面白いことは間違いない。ちなみにスコセッシは本作で第39回カンヌ国際映画祭において監督賞を獲得している。

 ニューヨークの“山の手”に住むコンピューター・プログラマーのポールは仕事を終えて喫茶店で本を読んでいると、若い女マーシーが声を掛けてくる。彼女と電話番号を交換してゴキゲンになるが、その後乗ったタクシーの運転が乱暴であったため紙幣が窓から飛んで行ってしまう。それでもマーシーのアパートにたどり着くが、同じ部屋に住んでいた美術家のキキのエキセントリックさに耐えられず逃げ出す。

 地下鉄で帰ろうとしたら小銭が足りない。どしゃ降りの雨の中、入ったバーのバーテンダーのトムから金を借りることになり、レジの鍵をトムの家に取りに行ったところ、偶然にキキの彫刻を盗もうとする2人組と出くわしてしまう。こうしてポールは悪夢のようなトラブルの連鎖にはまり込んでゆく。

 主人公が巻き込まれる“じれったさの泥沼(?)”の描写は秀逸だ。マーシーの電話番号をメモしようとすると、ボールペンのインクが切れているのを皮切りに、電話が掛けられない、地下鉄に乗れない、タクシーではひどい目に遭う、頼りの店は閉まっているetc.すべてが裏目裏目に出て、もがくほどに深みにハマってゆく。これはなかなかのスペクタクルだ。

 しかし、映画が進むに連れて“どうオチを付けるのだ”という疑念が頭をもたげてくる。話が空中分解してそれでオシマイというのは、いくら何でも無責任ではないか・・・・という心配が大きくなると、作者は終盤で“大技”を持ってくる。何度も登場するムンク風のオブジェが伏線になり、ポールはとうとう究極的なドン詰まりの状態に置かれてしまうのだ。それに続く結末は、ニューヨーカーの一見順調な生活の裏にある実相を活写して圧巻である。

 主演のグリフィン・ダンが実に印象深い。ほとんど彼の一人舞台だが、スコセッシの期待を裏切らない快演である。ロザンナ・アークエットにテリー・ガー、リンダ・フィオレンティーノ、ジョン・ハードといった脇の顔ぶれも濃い。ミハエル・バルハウスのカメラとハワード・ショアの音楽も言うことなしだ。
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「バイス」

2019-05-06 06:25:23 | 映画の感想(は行)
 (原題:VICE)前作「マネー・ショート 華麗なる大逆転」(2015年)ではその持ち味が文字通り“華麗に”決まったアダム・マッケイだが、本作では全体的に空回り。一向に面白くならず、鑑賞後の印象は芳しいものではない。要するにこれは、題材と手法とのアンマッチであろう。

 ワイオミング大学出身の青年ディック・チェイニーは、地元では酒癖の悪さで知られる問題人物だった。それでも60年代半ばには後に結婚する恋人のリンに奨められ、政界を目指すことになる。75年に国防長官となるドナルド・ラムズフェルドのもとで政治手法(裏技を含む)を叩き込まれ、議員になってから次第に頭角を現す。国務長官を経て、2001年にジョージ・W・ブッシュ政権時に副大統領に就任。



 通常、あまり重要ポストだと思われなかった副大統領という地位を逆手に取り、国民やマスコミに知られることなく大胆な根回しと押しの強さで好き勝手に振る舞う。同年9月11日に同時多発テロ事件が起こると、大統領を差し置いてアフガニスタンやイラクに軍事介入することを決めてしまう。アメリカ史上最も権力を持った(と言われる)副大統領の実態に迫ろうというドラマだ。

 経済ネタを扱った「マネー・ショート」では、実体経済という捉えどころの無いシロモノをエンタテインメントの題材として仕上げるために、マッケイ監督のオフビートでギャグ満載の手法が威力を発揮した。しかし本作の素材は“政治”である。政治がもたらした昨今の世界情勢は、程度の差こそあれ皆が関知している事柄だ。ここは正攻法でいくしかないだろう。

 しかも、チェイニーをはじめこの映画に出てくるキャラクターの多くは現時点で健在だ。本人達を前にして悪ふざけをやらかすのは、さすがに傲慢と言わざるを得ない(名誉毀損で訴えられたら勝つのは難しいだろう)。

 それでも、映画の切り口が斬新だったり、誰も知らなかった事実を明らかにしてくれたら文句は無かった。しかし本作は相変わらずの“共和党はダメ。民主党はオッケー”という、ハリウッドの“伝統的スタンス”を一歩も出ておらず、少しも興趣を覚えるところは無い。そもそも、チェイニーがどうしてああいう行動に出たのか、そのバックボーンに全然迫らずに現象面だけを追っているという有様だ。

 主演のクリスチャン・ベールは体重を20キロも増やし、髪の毛を剃って眉毛を脱色するなど、徹底した役作りでチェイニーになりきっている。しかし、他の登場人物も含めてそれは“そっくりさんショー”のルーティンでしかなく、観ていて鼻白むばかりである。共演のエイミー・アダムスやスティーヴ・カレル、サム・ロックウェルも頑張ってはいるが、映画の出来自体が斯くの如しなので、あまり印象に残らない。
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「フォード・フェアレーンの冒険」

2019-05-05 06:39:28 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE ADVENTURES OF FORD FAIRLANE )90年作品。レニー・ハーリンといえば90年代にいくつも大作を手掛け、売れっ子の監督になったと思われたが、その後は目立った実績を上げていない。実を言えば、彼の真骨頂はメジャーになる前の諸作にあった。具体的には88年に製作した「エルム街の悪夢4 ザ・ドリームマスター 最後の反撃」と本作だ。同年のゴールデンラズベリー賞を総ナメしたほど評論家筋からはケナされたらしいが、個人的には大好きなシャシンである。

 軟派な私立探偵フォード・フェアレーンは、ある日人気DJのジョニーから行方不明の妹ズーズーを探して欲しいとの依頼を受ける。だが、その直後にジョニーは何者かによって消されてしまう。一方、大金持ち女のコリーンからもズーズーを探すよう頼まれたフォードだったが、捜査の結果、ズーズーはヘヴィメタルバンドのヴォーカリストであるボビー・ブラックの彼女だったことを突き止めるものの、ボビーもすでに殺されていた。どうやらレコード会社の社長グレンデルが怪しいと踏んだフォードだったが、今度は彼自身が殺し屋のターゲットになってしまう。



 正直言って謎解きの興趣はあまりないが、この場合それで構わない。なぜなら本作は、キャラクターを見る映画だからだ。とにかく、フォードの造型が最高だ。ロスアンジェルスの音楽業界専門探偵という怪しげな稼業に携わり、自分の“ナニ”に名前を付けるほどのクレイジーな野郎である。

 乗る車はギンギンにデコレートしたフォードで、住処は海辺のビーチハウス。なぜかどこの高級クラブやディスコも顔パスで出入り可能。寝るときは常に女を二人以上侍らせると豪語している。絶えず意味も無くカッコ付けていて、特に煙草に火をつける際の“プロトコル”には爆笑させられた。毎朝目覚まし代わりにジミ・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ」を大音量で鳴らすのをはじめ、劇中にはロックが常時流れて、それか作劇のリズムと絶妙にシンクロしている。

 ハーリンの演出はハッタリを思いっきり効かせた賑々しいものだが、それがまたこの主人公像にピッタリである。主役のアンドリュー・ダイス・クレイはまさに怪演。プリシラ・プレスリーやロバート・イングランド、ウェイン・ニュートン、マディ・コーマンといった面々も濃い。オリヴァー・ウッドのカメラによるカラフルな映像、そして華やかな衣装デザインや美術も場を盛り上げる。
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「マイ・ブックショップ」

2019-05-04 06:47:15 | 映画の感想(ま行)
 (原題:LA LIBRERIA )舞台設定や時代背景の描写には惹かれるものはあるが、映画としてはパッとしない出来。とにかく題材に対する突っ込みが浅く、だからストーリーに覇気が無く、要領を得ないままエンドマークを迎える。斯様に作劇の芯が形成されていない状態では、訴求力を高めるのは難しい。

 1959年。戦争未亡人のフローレンスは、英国の海沿いの小さな町に書店を開く。もとより保守的な土地柄で周囲からの反発を受ける彼女だが、やがて40年以上も邸宅に引きこもり、ただ本を読むだけの日々を過ごしていた老紳士ブランディッシュと知り合う。彼や店を手伝う少女のに支えられ、何とか書店の経営は軌道に乗ってくる。だが、彼女を嫌う地元の有力者ガマート夫人が、行政を巻き込んで書店を閉鎖に閉店に追い込もうと画策していた。ブッカー賞受賞作家ペネロピ・フィッツジェラルドの小説の映画化だ。



 そもそも、どうしてフローレンスが書店を開設しようと思ったのか、その動機が明確に示されていない。しかも、ロケーションは読書好きが多いとは思えない田舎町だ。ここは彼女の本に対する愛情や造詣、そしてこの町がヒロインを惹き付ける背景などをテンション上げて描くべきだろう。

 ブランディッシュの方もキャラクターが掘り下げられていない。ただの偏屈な老人にしか見えないのだ。さらに言えば、ガマート夫人がフローレンスを快く思わない理由もよく分からない。どうやらこの書店の建物が歴史的建造物であるらしいのだが、それだけではガマート夫人の言動は説明出来ない。裏に大きな利権が絡んでいるとか、過去にフローレンスと夫人との間に何か確執があったとか、納得出来るモチーフが無ければ説得力は乏しい。

 ストーリーは山が無く、フローレンスが逆境に陥っていく様子を、何ら工夫されないまま平板に展開するのみだ。少しはヒロインが活躍する場が与えられて然るべきだと思うのだが、このメリハリの無さには閉口するばかり。イザベル・コイシェの演出は常時沈んだままで、高揚感がドラマに付与されることはない。

 主演のエミリー・モーティマーをはじめ、ビル・ナイやパトリシア・クラークソンなど良いキャストが揃っているだけに残念だ。ただし、ジャン=クロード・ラリューのカメラによる清澄で重みのある映像と美術、アルフォンソ・ビラリョンガの音楽は評価出来る。
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「ロングウェイ・ホーム」

2019-05-03 06:41:52 | 映画の感想(ら行)
 (原題:A LONG WAY HOME )81年作品。身を切られるような現実の惨さ、それに翻弄される主人公達、そしてその先に見える一筋の光明をも示し、実に訴求力の高い人間ドラマに仕上がっている(実話を題材にしている)。元々はテレビ映画として製作され、全米で45%という視聴率を記録したらしいが、テレビ番組にありがちな安易なアプローチは見当たらず、しっかりとした作りだ。

 少年ドナルドの父親は無職で、母親は娼婦だった。彼と幼い弟と妹の3人には、住む家も無い。ある雨の日に、彼らは親から置き去りにされる。警察に保護されて児童擁護センターに送られるが、3人は別々の施設に預けられる。月日は流れ、成長したドナルドは弟と妹を探すために奔走する。



 まず、子供達が置かれているシビアな境遇には驚かされる。まさに目を覆わんばかりだ。昨今は世間を騒がせる虐待事件が後を絶たないが、状況は今も昔も変わっていないのだ。

 そして、ドナルド達と里親との微妙な関係性が描かれているあたりも上手い。育ててくれたことには感謝はしているのだが、やっぱり実の親ではない。里親の側としても、距離感を掴むのは難しいだろう。結果としてドナルドが成人するまで互いに折り合いを付けられない。ここは決して単なる美談にはしないという、作者の意図が感じられる。それだけに、後半に両者が“和解”するくだりは感慨深い。

 ドナルドが弟と妹を探し出す過程は山あり谷ありで、適度なサスペンスも折り込み、飽きさせない。彼らの本当の両親のようにロクでもない人間は少なくないが、マトモな者はそれよりもずっと多く、真摯に接すれば必ず助けてくれるという構図の提示は申し分ない。印象に残るのは、自分の身分をわきまえた範囲で最大限ドナルドをサポートしてくれる施設の女性カウンセラーだ。“渡る世間に鬼はなし”とはよく言ったものである。

 ロバート・マーコウィッツの演出は丁寧で、登場人物の内面を巧みに掬い上げる。それに応えるティモシー・ハットンやブレンダ・ヴァッカロ、ポール・レジナ、ロザンナ・アークエットといったキャストも申し分の無い仕事ぶりだ。感動的なクライマックスは観る者の涙を誘うだろう。また、児童福祉の問題に関して考える上でも、大いに参考になる映画である。
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