元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「さがす」

2022-02-12 06:18:18 | 映画の感想(さ行)
 設定やキャスティングは決して悪くない。しかし、映画自体はまるで面白くない。これはひとえに脚本の不備と人物描写の不徹底にある。何をどう表現したいのか、作者はそこをよく吟味しないまま見切り発車的に撮影に入ったように思える。段取りを整えることがプロデューサーの役割だが、その配慮が足りていない。

 大阪の下町に暮らす中年男の原田智は、中学生の娘の楓に“指名手配中の連続殺人犯を見掛けたから、情報提供して懸賞金の300万円をゲットしてくる”と告げる。いつもの冗談だと聞き流していた楓だが、翌日父は姿を消してしまう。すでに母を亡くして一人ぼっちになってしまった彼女は必死で智を探すが、ある日雇の工事現場で父の名前を見つける。ところが現れたその人物は、父とは違う若い男だった。戸惑う楓だったが、やがて目にした指名手配犯のポスターに載っていた写真が、くだんの男であることに気付く。

 映画はそれから智の失踪劇の前の時制に戻り、妻が難病を患っていたことなどを示しつつ、事の真相に迫っていくのだが、これがどうにも説得力を欠く。殺人犯の山内照巳と智は実は面識があったのだが、2人が知り合うシチュエーションがかなり不自然。そして彼らは共同して“仕事”をするようになるのだが、どうしてそのような按配になったのか、説明がまるで足りていない。

 カタギの人間が荒事に手を染めるようになるには高いハードルが存在するにも関わらず、突っ込んで描こうとはしていない。悪事を重ねながら各地を転々とする照巳の行状も釈然とせず、犯行の動機は取って付けたようだし、被害者の白いソックスに執着するのも意味不明だ。そもそも、指名手配のチラシがあちこち貼られている状態で、工事現場で簡単に雇ってもらえるはずがないだろう。

 父の行方を追う楓が“偶然に”所在のヒントを掴むのも無理筋なら、智が以前経営していた卓球クラブの旧店舗が“都合よく”犯人側に使われていたというプロットも強引に過ぎる。このような状況で、ラストの親子の姿に涙しろと言われても、それは出来ない注文だ。

 主演の佐藤二朗をはじめ、楓に扮する伊東蒼、清水尋也、森田望智、成嶋瞳子と、キャストはいずれも力演。だが、話自体が絵空事であるため皆上滑りしている感がある。片山慎三の演出はピリッとせず、大阪の下町の風景も効果が上がっているとは言い難い。それにしても、伊東と清水、それに森田が顔を揃えるとNHKの朝ドラ「おかえりモネ」を思い出してしまう(笑)。
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「ビバリーヒルズ・バム」

2022-02-11 06:17:31 | 映画の感想(は行)

 (原題:Down and Out in Beverly Hills )86年作品。ポール・マザースキー監督作としてはあまり知られていないが、間違いなく彼の政治的姿勢を示す映画だ。また、同時に製作時期におけるアメリカの社会情勢、およびそれに対するリベラル系(?)ハリウッド人種のスタンスも垣間見え、その意味では興味深い一本である。

 実業家のデイヴはビバリーヒルズの豪邸で妻子と共にリッチな生活を送っていたが、家族の内実は問題だらけであった。そんな中、邸宅敷地内のプールでホームレスの男が入水自殺しようとするのを目撃したデイヴは、彼を助けて一先ず邸内に住まわせることにした。

 男はジェリーと名乗り、今は貧しい身なりをしているが、実は学問や芸術に秀でたインテリであり、かつては映画の脚本家として実績を残していた。デイヴはそんな彼に興味を持つが、ジェリーの存在はデイヴ一家に波乱を引き起こす。1932年製作のジャン・ルノワール監督「素晴らしき放浪者」(私は未見)のリメイクである。

 ジェリーは明らかに、60年代にドロップアウトしていったヒッピーやフラワー・チルドレンの生き残りである。事実、ジェリーと一緒に海岸と過ごしたデイヴの周りには、ジェリーの仲間である“それらしい連中”が集まってくる。もちろん、彼らのライフスタイルは過去の遺物でしかないのだが、どうしてあえてジェリーのような人物とビバリーヒルズの住人を映画の中で引き合わせたのか、製作された頃の時代背景を考えればその理由は想像が付く。

 80年代のアメリカは保守主義が大手を振って罷り通っていた。映画界でも「ロッキー4 炎の友情」や「トップガン」といった威勢の良いシャシンが目立ち、反権力を身上とする従来のハリウッドの面子の居場所が無くなっていた。確かにこの時期はアメリカは高い経済成長率を誇ったが、世の中全体が金ピカでペラペラになり、人間性をどこかに置いてきたような風潮があった(少なくとも、この映画の製作陣はそう考えていた)。そこで元ヒッピーのジェリーをトリックスターとして登場させ、当時の世相を大いに皮肉ってみせたというのが本作の本質だろう。

 マザースキーの演出は軽快で、主演のニック・ノルティとリチャード・ドレイファスの掛け合いは楽しく見せる。脇にベット・ミドラーやトレイシー・ネルソン、エリザベス・ペーニャといったライトな面子を配しているのも納得だ(マザースキー自身も出演している)。ドナルド・マカルパインのカメラによる明朗な映像、そして音楽は元ポリスのアンディ・サマーズが担当しているのも面白い。
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「スティルウォーター」

2022-02-07 06:23:11 | 映画の感想(さ行)
 (原題:STILLWATER)身内の者が事件に巻き込まれて主人公はそれを助けるべく奮闘するという、設定はよくあるサスペンス物ながら、本作は一筋縄ではいかない構造を持つ。幕切れのカタルシスは希薄ながら、観る者に内容に関してあれこれ考察するモチーフを与えてくれる。実にクレバーな作りで、観た後の満足感は大きい。

 オクラホマ州スティルウォーターに住む中年男ビル・ベイカーは、仏マルセイユに赴くことになった。そこに留学していた娘のアリソンが、友人を殺害した罪で収監されていたのだ。娘の無実を信じるビルだったが、弁護士も捜査当局もアリソンの有罪を確信している。ましてや言葉も通じない異国の地であり、彼の奮闘は空振りに終わると思われた。だが、偶然知り合ったシングルマザーのヴィルジニーと幼い娘マヤの助力を得て、ジムはそのままマルセイユに滞在して事の真相を暴こうとする。



 スティルウォーターの街は竜巻の被害でほぼ壊滅し、建設会社に勤めていたビルはその後片付けに追われていた。経済的に恵まれない中西部の住民で、彼の妻は理不尽にも世を去っているが、それでも強いアメリカの底力を信じている。彼には前科があって一時的に公民権を停止されているものの、投票権があるならば先の大統領選で躊躇無くトランプに一票を投じていたであろう。

 そんな彼が、フランスという全く違う環境に放り込まれるとどうなるのか。映画は彼の姿を通して、国際社会における個人の立ち位置を考察する。ジムは異郷にあっても、アメリカンな(?)マッチョイズムを押し通す。フランス語を覚えることに積極的ではないし、娘は徹頭徹尾イノセントだと断定し、反対意見を受け付けない。目的のためには手段を選ばず、そうすることに悪びれることも無い。

 その態度は彼の地では通用しないことはもちろんだが、実は故郷にいる時もそうだったのだ。彼の母や、周りの人間はそれに気付いていて、知らぬは本人だけ。その頑迷なアメリカ第一主義が、この事件で大いに揺らいでいく様が容赦なく描かれている。終盤ではジムは娘の隠された面をも見せつけられるのだが、言い換えればそこまでしないと価値観は変えられないのだ。終盤の主人公の独白は、そのことを痛いほど思い知らされる。

 トム・マッカーシーの演出は「スポットライト 世紀のスクープ」(2015年)の頃より円熟しており、ドラマを味わい深いものにしている。主演のマット・デイモンは、彼が過去に演じた武闘派の人物たちのパロディのような役どころを上手くこなしている。アリソンに扮したアビゲイル・ブレスリンは、相変わらずルックスには難があるが演技は達者だ。ヴィルジニー役のカミーユ・コッタンの柔らかな雰囲気と、マヤを演じるリロウ・シアウヴァウドの利発ぶりも印象的。高柳雅暢による撮影とマイケル・ダナの音楽も及第点だ。
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「危険な英雄」

2022-02-06 06:16:27 | 映画の感想(か行)
 1957年東宝作品。先日逝去した石原慎太郎は作家及び政治家として知られていたが、俳優として何本か映画にも出ている。本作はその中の一本で、出来自体は正直大したものではないが、現代にも通じるテーマ設定と不穏な空気感が印象的なシャシンだ。なお、私はこの作品を某映画祭で観ている。

 資産家の三原準之助の長男健司が、帰校の途中何者かに誘拐される。犯人からは“身代金を渋谷東宝前に持って来い。警察に届けると子供の命は無い”との脅迫文が家族に届いたが、健司の姉の葉子は躊躇わずに警視庁に通報する。彼女と担当の小野塚刑事とのやり取りを立ち聞きした新聞記者の今村は警察に取材するが、犯人逮捕までマスコミ報道を控えるということで合意を得た。

 ところがこの話を聞きつけた三流新聞社の冬木は、勝手にこのネタを紙面に載せる。おかげで身代金受け渡しの場所に犯人は現れず、逮捕は未達に終わるが、冬木は特ダネを得たことで大威張りで、後悔する様子はまったく見られない。さらに葉子に犯人への手紙を書かせるという、あり得ない暴挙にも出る。しかし、事件は冬木の悪ノリをよそに思わぬ結末を迎える。

 言うまでもなく本作の主題はマスコミの暴走に対する糾弾であり、これは現在でもまったく色あせないテーマだ。それどころか今ではマスコミ人種だけでなくSNS上に徘徊する無責任なネット民たちが、真偽不確かなネタを振り撒きながら事態を混乱させている。冬木のキャラクターはそれを体現化したもので、どんなことをやらかしても謝罪も反省もなく、英雄気取りで自分が正しいと信じ込む。

 冬木を演じているのが石原で、率直に言って演技は褒められたものではない。セリフは棒読みで身体のキレも悪い。この点、弟の裕次郎とはかなり差がある。しかし、冬木の人と人とも思わない傲慢な態度は、現実の石原の言動と微妙にクロスしてこれがけっこう面白い。もしも彼が政治家への道に進まずに俳優業を続けていたならば、非情な悪役が得意なバイプレーヤーになっていたかもしれない(笑)。

 鈴木英夫の演出は他の監督作と比べると粘りが足りないが、小沢栄太郎に多々良純、司葉子、仲代達矢、志村喬、そして三船敏郎や宮口精二といった多彩なキャストが場を盛り上げている。芥川也寸志の音楽も良い。
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「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」

2022-02-05 06:18:17 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SPIDER-MAN:NO WAY HOME)面白く観ることは出来たが、これは2002年からのサム・ライミ監督による3作と2012年からのマーク・ウェブ監督版の2本、そして本作の前作と前々作の計7本をチェックしておかないと、絶対に楽しめない。ついでに言えば、2018年からの「ヴェノム」の2本と2016年の「シビル・ウォー キャプテン・アメリカ」からの「アベンジャーズ」シリーズも観ておく必要がある。徹底して“一見さんお断り”のシャシンに特化し、それが大ヒットしてしまうのだから呆れてしまう。

 前回「ファー・フロム・ホーム」(2019年)で倒した怪人ミステリオが残した映像を、タブロイド紙が世界に公開。ピーター・パーカーがスパイダーマンであることが知られてしまい、さらにミステリオ殺害の容疑が掛けられてしまった。デアデビルことマシュー・マードック弁護士のはたらきで何とか釈放されたピーターだが、すでに元の生活に戻ることは出来ない。



 そこで彼はドクター・ストレンジに助力を求め、魔法の力で今回の件は“無かったこと”にして欲しいと頼むが、魔法を掛ける段取りの途中で邪魔が入ったため、間違って“別の世界”から怪人たちを呼び寄せてしまう。この“別の世界”というのはサム・ライミ監督版とマーク・ウェブ監督版のことで、出てくる悪役はドクター・オクトパスやグリーン・ゴブリン、エレクトロにリザードといった連中だ。ピーターはそいつらと戦いつつ、彼らを“改心”させて元の世界に戻そうと奮闘する。

 昔、テレビの特撮もので最終回近くに今までの怪獣・怪人たちが大挙して再出演するという、いわば“視聴者サービス”みたいなものが展開することがあったが、本作はまさにそれだ。過去の悪役どもが顔を揃え、しかも元の世界と微妙に違う状況に戸惑いつつもピーターと大々的なバトルを敢行するという、このシチュエーションだけで嬉しくなってしまう。さらに“あの人たち”も登場するに及び、興趣は増すばかり。

 率直に言えば、この映画のストーリー運びはあまり上等ではない。余計なシーンが目立つし、いくらピーターたちが有能だといっても、高校生の分際で事態を収拾させる方法を“科学的に”突き止められるわけがない。後半で主要人物が退場したり、大事なところで都合良く“魔法の力”が出てきたりと、行き当たりばったりに話が進むことがある。

 とはいえこの賑々しさと、ペーソスあふれるラストの処理の印象度も相まって、鑑賞後の気分は決して悪いものではない。ジョン・ワッツの演出は前回よりも落ちるとはいえ、観る者を退屈させないように腐心している。主演のトム・ホランドをはじめゼンデイヤ、アンガーリー・ライス、ジェイコブ・バタロン、マリサ・トメイらのレギュラーメンバーに加え、ベネディクト・カンバーバッチにアルフレッド・モリーナ、ジェイミー・フォックス、J・K・シモンズらの濃い面々が場を盛り上げる。

 とりあえずはスパイダーマンが単独で主人公を演じるシリーズはこれで一段落し、これからはアベンジャーズの新展開と連動していくのだろう。また、ヴェノムの動向も気になる。いささか話が広がりすぎたマーベルの世界だが、これからも出来る限り付き合っていきたい。
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「光と影のバラード」

2022-02-04 06:19:08 | 映画の感想(は行)
 (英題:Friend to Foes,Foe to Friends )74年ソビエト作品(日本公開は82年)。ロシアの代表的監督である、ニキータ・ミハルコフの長編デビュー作だ。ウェルメイドとは言い難いが、独特の雰囲気と劇中で扱われた時代性の描写はよく出来ていると思う。そして何より、ソ連映画でありながら完全にウエスタンのスタイルを取っていることが大いに興味をそそるところである。

 1920年代初頭。ロシア革命は終わったが、相変わらず国内では混乱が続いていた。民衆は貧困に苦しみ、反革命勢力の白軍も跳梁跋扈している。党地方委員会議長のサルィチェフ率いる赤軍は、貴金属と引き換えに外国から食料を調達することを決定。委員会はシーロフを隊長に任命し、集めた金をモスクワに届けようとしたのだが、輸送列車が白軍に襲われて金を奪われてしまう。ところが、その白軍も無政府主義者のブルィロフ率いる盗賊団の急襲を受ける。シーロフは名誉を挽回すべく、単身盗賊グループのアジトに乗り込むのだった。



 正直言ってミハルコフの演出はぎこちなく、ドラマ運びはスムーズではない。展開が間延びしている箇所も目に付く。しかしそれでも観ていられたのは、この時代の空気感がよく出ていたからだ。理想を追い求めて革命に走った者たちが、事が終わってしまうと虚脱感に苛まれ、それぞれが捨て鉢な行動に出る。この何とも言えない寂寞とした雰囲気が、作品に独特のカラーを付与させている。

 しかも、列車強盗に盗賊団と、西部劇のモチーフが満載である点が嬉しい。たぶん当時のロシアも、少し前のアメリカの荒野のような光景が繰り広げられていたのだろう。ただし、ここにはピンチになると駆けつける騎兵隊も、腕っ節の強い保安官もいない。まるで無法地帯だ。そしてそれは、革命後のロシアと今に続く彼の国の閉塞感を象徴している。

 シーロフ役のユーリー・ボガトイリョフをはじめ、アナトリー・ソロニーツィンにセルゲイ・シャクーロフ、アレクサンドル・ポロホフシコフ、ニコライ・パストゥーホフ、そしてブルィロフに扮したミハルコフ自身など、皆馴染みは無いが良い面構えをしている。なお、この映画を撮ったときミハルコフは29歳だったが、その3年後には「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」という秀作をモノにしている。やはり、元々才能のある作家というのは上達も早いということだろう。
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