(英題:Friend to Foes,Foe to Friends )74年ソビエト作品(日本公開は82年)。ロシアの代表的監督である、ニキータ・ミハルコフの長編デビュー作だ。ウェルメイドとは言い難いが、独特の雰囲気と劇中で扱われた時代性の描写はよく出来ていると思う。そして何より、ソ連映画でありながら完全にウエスタンのスタイルを取っていることが大いに興味をそそるところである。
1920年代初頭。ロシア革命は終わったが、相変わらず国内では混乱が続いていた。民衆は貧困に苦しみ、反革命勢力の白軍も跳梁跋扈している。党地方委員会議長のサルィチェフ率いる赤軍は、貴金属と引き換えに外国から食料を調達することを決定。委員会はシーロフを隊長に任命し、集めた金をモスクワに届けようとしたのだが、輸送列車が白軍に襲われて金を奪われてしまう。ところが、その白軍も無政府主義者のブルィロフ率いる盗賊団の急襲を受ける。シーロフは名誉を挽回すべく、単身盗賊グループのアジトに乗り込むのだった。
正直言ってミハルコフの演出はぎこちなく、ドラマ運びはスムーズではない。展開が間延びしている箇所も目に付く。しかしそれでも観ていられたのは、この時代の空気感がよく出ていたからだ。理想を追い求めて革命に走った者たちが、事が終わってしまうと虚脱感に苛まれ、それぞれが捨て鉢な行動に出る。この何とも言えない寂寞とした雰囲気が、作品に独特のカラーを付与させている。
しかも、列車強盗に盗賊団と、西部劇のモチーフが満載である点が嬉しい。たぶん当時のロシアも、少し前のアメリカの荒野のような光景が繰り広げられていたのだろう。ただし、ここにはピンチになると駆けつける騎兵隊も、腕っ節の強い保安官もいない。まるで無法地帯だ。そしてそれは、革命後のロシアと今に続く彼の国の閉塞感を象徴している。
シーロフ役のユーリー・ボガトイリョフをはじめ、アナトリー・ソロニーツィンにセルゲイ・シャクーロフ、アレクサンドル・ポロホフシコフ、ニコライ・パストゥーホフ、そしてブルィロフに扮したミハルコフ自身など、皆馴染みは無いが良い面構えをしている。なお、この映画を撮ったときミハルコフは29歳だったが、その3年後には「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」という秀作をモノにしている。やはり、元々才能のある作家というのは上達も早いということだろう。
1920年代初頭。ロシア革命は終わったが、相変わらず国内では混乱が続いていた。民衆は貧困に苦しみ、反革命勢力の白軍も跳梁跋扈している。党地方委員会議長のサルィチェフ率いる赤軍は、貴金属と引き換えに外国から食料を調達することを決定。委員会はシーロフを隊長に任命し、集めた金をモスクワに届けようとしたのだが、輸送列車が白軍に襲われて金を奪われてしまう。ところが、その白軍も無政府主義者のブルィロフ率いる盗賊団の急襲を受ける。シーロフは名誉を挽回すべく、単身盗賊グループのアジトに乗り込むのだった。
正直言ってミハルコフの演出はぎこちなく、ドラマ運びはスムーズではない。展開が間延びしている箇所も目に付く。しかしそれでも観ていられたのは、この時代の空気感がよく出ていたからだ。理想を追い求めて革命に走った者たちが、事が終わってしまうと虚脱感に苛まれ、それぞれが捨て鉢な行動に出る。この何とも言えない寂寞とした雰囲気が、作品に独特のカラーを付与させている。
しかも、列車強盗に盗賊団と、西部劇のモチーフが満載である点が嬉しい。たぶん当時のロシアも、少し前のアメリカの荒野のような光景が繰り広げられていたのだろう。ただし、ここにはピンチになると駆けつける騎兵隊も、腕っ節の強い保安官もいない。まるで無法地帯だ。そしてそれは、革命後のロシアと今に続く彼の国の閉塞感を象徴している。
シーロフ役のユーリー・ボガトイリョフをはじめ、アナトリー・ソロニーツィンにセルゲイ・シャクーロフ、アレクサンドル・ポロホフシコフ、ニコライ・パストゥーホフ、そしてブルィロフに扮したミハルコフ自身など、皆馴染みは無いが良い面構えをしている。なお、この映画を撮ったときミハルコフは29歳だったが、その3年後には「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」という秀作をモノにしている。やはり、元々才能のある作家というのは上達も早いということだろう。