♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして9年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄 3月号

2016-03-15 14:19:51 | 随想
 葬儀の意味

 大阪教区の門徒総代会での、全体研修会の総合テーマは、「葬送儀礼を考える」です。2月4日の天岸浄圓師(東住吉組西光寺)の講演でお聞きした内容を中心に報告します。

「村八分」という言葉をご存じでしょう。主に江戸時代のことですが、村の生活共同体の約束事に大きく違反すると、「村八分」という制裁が加えられました。村での相互扶助の内容は、冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の十種類でした。その内、火事と葬儀以外の八種の扶助を絶たれることを「村八分」といったのです。厳しい掟の中でも、火事と葬儀は互いに扶助したのは、それだけ多くの人の手を必要としたということと、人の「死」を重く受け止めていたということでしょう。

 時代とともに地域共同体の結びつきが希薄になり、個人化が進みました。葬儀の扶助の大半を葬祭業者が代行するようになり、さらに近年では経済状況の悪化、社会状況の変化で行き着くところまで行ったという感があります。「直葬」は遺体を直ちに火葬へ、「0葬」はお骨も引き取らない言わば焼却処分。さすがに、これでいいのだろうかと見直しが始まったと聞き及びます。 
では、なぜお葬式を勤めるのでしょう?浄土真宗以外の宗派で葬儀を営む理由は、「引導」をわたすためです。大声で「一喝」を与え、迷いから悟りに向かわせる儀式を行います。ただし、本来は生前中に受けるもので、正しい教えによって信仰を恵まれ、正しく生きる生き方を明らかにするためのものでした。
 一休さん(室町時代、臨済宗)にこんな話が伝わっています。檀家さんが亡くなった時、引導を与えてほしいと依頼されました。そこで、一休さんは「木槌を持ってきてくれ」と。木槌を渡されると、それで遺体の頭を強く一撃・・。そしてこれではダメだと言って、帰りかけられたというのです。息子が「どういうことですか」と言い寄りますと、一休さんは「引導というものは、叩けば『痛い!』ということのできる間に渡すもので、こうなってしまっては、いかに私でも渡すことはできない」と寺へ帰られたということです。「一休のまねして寺を追い出され」という句もあるそうです。
さて、真宗に立ち戻ります。真宗では引導に相当する儀式は本願寺での「帰敬式」です。仏法僧の三宝に帰依する人生を送ることを仏前に誓い、法名をいただきます。阿弥陀如来の本願力によって浄土に往生して仏に成らせていただくと聞かせてもらったものにとって、葬儀はお浄土への旅立ち、そして先立つ人をお浄土に送る、いわば「卒業式」です。

 仏女・新年会(2/3)
 
 去年に引き続き本堂での仏教女性会の新年会に、17人もの会員が集まりました。「正信偈」行譜のお勤めのあと、ご馳走いっぱいのお弁当をいただきました。おみそ汁にお茶、お菓子にコーヒー、みかん・・久しぶりに顔を合わせてお互いの近況報告の花が咲きました。石川南組の仏教婦人会のダーナ訪問(年に一度実施している施設訪問)の練習を兼ねて、住職からなぞなぞ、坊守からはミニ体操で締めくくりました。     合掌


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