♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして9年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄2025年2月号

2025-01-22 13:51:08 | 随想

2025(令和7)年

2月号(No.135)

了雲寺 釈幸華

慶聞抄(きょうもんしょう)

噫(ああ)弘(ぐ)誓(ぜいの)強(ごう)縁(えん)

 年末、「震災支援を続ける会」&「てんぷる食堂よしざき」の

 能登半島地震支援活動に参加しました。輪島朝市での一周忌法要の

 あと、焼きソバとたこ焼きを作って食べてもらいました。

 

イスラエルとハマスの停戦。これはよしとして、問題はトランプ! ニュースのたびに顔がTVに出るのを嫌った連れ合いは、完璧にニュースを見なくなり(ミステリーは相変わらず)タブレットで用を足しています。そして、ザッカーバーグがファクトチェック(情報の正確性を検証すること)はしないと発表してからはフェイスブックも止めました。明らかにトランプに追従する姿勢です。かつては性的少数者や人種、移民などに対する偏見・差別を見逃さない姿勢だったのに。今のところ米国内だけですが、「自由な表現という原点に立ち返る」と言うのが聞き苦しい。言論よりビジネスでしょ!

「御堂さん」1月号の表紙の見返りに、元旦会(え)に、『総序』が読まれる寺院が多いとありました。これは、親鸞聖人の主著『教行信証』の冒頭に書かれた、たった2ページではありますが、あまりにも有名で格調高い序文です。

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓(ぐぜい)は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。

と、始まります。現代語版・・私なりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。

このあと「観無量寿経」に出て来る王舎城の悲劇❘我が子が王である夫を殺し、自らも捕らわれる❘韋提希(イダイケ)に、阿弥陀仏の浄土を願わせ、如来の慈悲の心が簡潔に述べられます。あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、得がたい金剛の(最上の)信心は、疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると。釈尊の説かれた教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはなく、悟りの世界を願いながらも知識が少なく罪深く思うものは、このすぐれたまことの道に帰して、この信を尊ぶがよい。

「ああ、弘誓の強縁多生(たしょう)にも値(もうあ)ひがたく、真実の淨信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、かへってまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世稀有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」

ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。如来の本願の何とまことであることか。摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。

「ここに愚禿(自身のあり方を内省された言い方)釈の親鸞、慶ばしいかな、西番・月支(インドとパキスタン地域)の聖典、東夏・日域(中国と日本)の師釈(祖師方の解釈)に、遇(あ)ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲(う)るところを嘆ずるなりと。」

ああ、は噫。声に出して読めば、800年前のご開山の胸の震えが感じられます。

ザッカ―バーグさんよ、あなたのこれからのビジネスに、どんな感動があるというのでしょうか ⁇                         

      合掌 

 

         

 除夜の鐘に集まって、年越し蕎麦をよばれました。

 

釈明和 

明る~く和む今月の一言

 

昨年は、大晦日に年越し蕎麦の振る舞いをさせていただきました。たくさんの方にお参りいただき、一緒に和やかに年を越すことができました。

 

ありがとうございました。

 

お参りくださった方に、お寺にどんな事を期待しますか ⁇ と聞いたところ、昔から神社仏閣に興味があるものの、お寺とはお葬式以外はご縁がなかったというご意見が多かったのです。

 

そして、お寺でしたい事で多かったのは、写経でした。

 

私自身も西山別院で正信偈の写経をしたことがあります。静かな環境で一心に丁寧にお経を書き写すだけなのですが、一つの事に集中する時間が有難く、これを毎日10分でも出来れば良いのになぁと感じたものです。

 

いつか了雲寺でも実現出来たらいいですね。

 

そして、仏教のこと、お寺での作法、葬儀の段取りなど、分からない事ばかりで毎回オロオロしている、誰に聞いていいか分からないので、教えてほしいともいただきました。

 

人の生死は、身内が一大事になってから焦る方が多いです。身内の介護も一緒ですよね。一大事になる前に、基礎知識があったなら・・と後悔することも多いですね。

 

最近、終活という言葉が流行っていますが、人生の棚卸・・在庫を確認する作業?・・もお手伝い出来ましょうか?

 

了雲寺がたくさんの方々とご縁がありますように、今年も頑張っていきます。

 

今年はヘビ年、脱皮の年です。新しい事を一つでもしていきましょう。


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