素晴らしく気持ちのいい朝だったもので、
サムが起き出すのを待てずに、マノアの谷を歩いて出発。
ハワイ大学まで1時間。そこからダイヤモンドヘッドの麓まで1時間。
ニューオータニのハウトゥリー・ラナイで朝食。
ホノルルに来たときに、各回一回だけ自分に許している贅沢。
ここのレストランには、家族との思い出が詰まっている。
アヒ・サラダを頼み、ハワイ産ならではの美味しい赤身を味わう。
ゆっくりとコーヒーを楽しんでから、
ビーチを歩いてワイキキの西の外れの郵便局に行って切手を買い、
家族への絵葉書を投函。
そこからワイキキ商店街を通って、クヒオ通りのバス停で
空港行きのバスを待つ。
初めてハワイに来たのは、
今は横浜・桜木町駅前に係留されている帆船日本丸の
実習生としてで、そのときの、アロハタワーからワイキキまでの
レインボーバスの料金は、確か、25セント。
あれから幾星霜、今のザ・バスの料金は、2ドル50セント。
たくさんの年月が流れたんだな。
サンドアイランド入口でバスを降りて、また歩く。
途中、ケーヒーマリーンを通り過ぎるときに、
12メータークラスを改造しているのが目に入り
中に入って、オリジナルの名前は何かを訊く。
アメリカII。
そうだそうだ、見覚えのあるトランサムだ。
1987年のアメリカスカップ。
デニス・コナーが失ったアメリカスカップを取り戻そうと、
ニューヨークヨットクラブは凄いばかりの資金を用意して、
2隻の12メータークラスを造った。
名前は2隻とも、アメリカII。
アメリカ号二世で、再びアメリカスカップを取り戻そうと切望したのだ。
スキッパーには、テキサス出身のジョン・コーリアスを抜擢。
自分が失ったカップを
ニューヨークヨットクラブ代表として
取り戻したいと懇願したデニス・コナーを退けての抜擢だった。
結果、コーリアス率いるニューヨークヨットクラブは惨敗。
皮肉にも、
万策尽きて居直り、サンディエゴヨットクラブから挑戦した
デニス・コナーがカップをカリフォルニアに持ち帰る。
以来、ニューヨークヨットクラブはカップに縁がなくなった。
コーリアスも、それをキッカケにセーラーとしての輝きを失っていった。
そういえば、1986年にフリーマントルに乗り込む前、
デニス・コナーは、ここサンドアイランドに秘密基地を置き、
ダイヤモンドヘッド沖の強風と大波の中で
艇のテストとクルートレーニングをおこなっていた。
そのときに、一度会いに行ったことを思い出した。
カヌーに着くと、モロカイ島から、パウアが手伝いに来ていた。
昨年7月の、オアフ島からモロカイ島までの航海以来の再会。
モロカイ島のパウアの家は、ラナイ島に面した素晴らしい海岸にあり、
その庭から見上げる夜空は最高で、土星のリングを初めて肉眼で見たのも
その庭からだった。
その庭に、カウアイ島からカヌーで運んだヤシの実を二つ植えた。
その椰子は、腰の高さまで大きくなったが、
ハンモックを吊るすにはまだまだだな、とパウアが笑う。
夕方からの、伝統航海師との、
昨日の続きのミーティングは、
短いながらも、再び濃い内容になった。
夜は、伝統カヌーの日本航海のサポート艇のクルーだった
エリックと、サムと共に食事。
政府が運用する気象観測船に乗る
プロの船乗りになったエリックだけど、
まだまだセーリングへの思いは断ち切れないようで、
しきりにセーリング計画を提案してくる。
日本でも、こういう若者が増えて欲しいな。
さ、今日は今回のサンドアイランド最終日。
作業、楽しんじゃおう、っと。
サムが起き出すのを待てずに、マノアの谷を歩いて出発。
ハワイ大学まで1時間。そこからダイヤモンドヘッドの麓まで1時間。
ニューオータニのハウトゥリー・ラナイで朝食。
ホノルルに来たときに、各回一回だけ自分に許している贅沢。
ここのレストランには、家族との思い出が詰まっている。
アヒ・サラダを頼み、ハワイ産ならではの美味しい赤身を味わう。
ゆっくりとコーヒーを楽しんでから、
ビーチを歩いてワイキキの西の外れの郵便局に行って切手を買い、
家族への絵葉書を投函。
そこからワイキキ商店街を通って、クヒオ通りのバス停で
空港行きのバスを待つ。
初めてハワイに来たのは、
今は横浜・桜木町駅前に係留されている帆船日本丸の
実習生としてで、そのときの、アロハタワーからワイキキまでの
レインボーバスの料金は、確か、25セント。
あれから幾星霜、今のザ・バスの料金は、2ドル50セント。
たくさんの年月が流れたんだな。
サンドアイランド入口でバスを降りて、また歩く。
途中、ケーヒーマリーンを通り過ぎるときに、
12メータークラスを改造しているのが目に入り
中に入って、オリジナルの名前は何かを訊く。
アメリカII。
そうだそうだ、見覚えのあるトランサムだ。
1987年のアメリカスカップ。
デニス・コナーが失ったアメリカスカップを取り戻そうと、
ニューヨークヨットクラブは凄いばかりの資金を用意して、
2隻の12メータークラスを造った。
名前は2隻とも、アメリカII。
アメリカ号二世で、再びアメリカスカップを取り戻そうと切望したのだ。
スキッパーには、テキサス出身のジョン・コーリアスを抜擢。
自分が失ったカップを
ニューヨークヨットクラブ代表として
取り戻したいと懇願したデニス・コナーを退けての抜擢だった。
結果、コーリアス率いるニューヨークヨットクラブは惨敗。
皮肉にも、
万策尽きて居直り、サンディエゴヨットクラブから挑戦した
デニス・コナーがカップをカリフォルニアに持ち帰る。
以来、ニューヨークヨットクラブはカップに縁がなくなった。
コーリアスも、それをキッカケにセーラーとしての輝きを失っていった。
そういえば、1986年にフリーマントルに乗り込む前、
デニス・コナーは、ここサンドアイランドに秘密基地を置き、
ダイヤモンドヘッド沖の強風と大波の中で
艇のテストとクルートレーニングをおこなっていた。
そのときに、一度会いに行ったことを思い出した。
カヌーに着くと、モロカイ島から、パウアが手伝いに来ていた。
昨年7月の、オアフ島からモロカイ島までの航海以来の再会。
モロカイ島のパウアの家は、ラナイ島に面した素晴らしい海岸にあり、
その庭から見上げる夜空は最高で、土星のリングを初めて肉眼で見たのも
その庭からだった。
その庭に、カウアイ島からカヌーで運んだヤシの実を二つ植えた。
その椰子は、腰の高さまで大きくなったが、
ハンモックを吊るすにはまだまだだな、とパウアが笑う。
夕方からの、伝統航海師との、
昨日の続きのミーティングは、
短いながらも、再び濃い内容になった。
夜は、伝統カヌーの日本航海のサポート艇のクルーだった
エリックと、サムと共に食事。
政府が運用する気象観測船に乗る
プロの船乗りになったエリックだけど、
まだまだセーリングへの思いは断ち切れないようで、
しきりにセーリング計画を提案してくる。
日本でも、こういう若者が増えて欲しいな。
さ、今日は今回のサンドアイランド最終日。
作業、楽しんじゃおう、っと。