日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

新羅の人々

2011年11月06日 | 日記

A.古の韓について、『魏志』は次のように書きます。

1.馬韓は西に在り、その民は土着である。
大者は自分の名を臣智と為す。国は凡(おおよ)そ50余ある。

2‐1.韓濊(これを韓と濊と読むか、韓の中の濊と読むか、読み方は二通りあります)が、後漢の桓帝(AD147~167)・霊帝(AD168~189)の末に盛強となり、郡県では制御できず、民(漢人)が韓国に多く流入した。(濊は南は辰韓と接し、北は高句麗・沃沮と接して朝鮮半島の東に位置していました)。

2‐2.建安中(196~220)、公孫康が屯有県以南の荒地に帯方郡を建て、公孫模・張敞(ちょうしょう)等を派遣して(漢の)遺民を集め、兵を興(おこ)して韓濊を伐った。この後、倭韓はついに帯方郡に属した。(この記述は、中国の史家に倭と認識される一団が朝鮮半島に存在したことを語っています)。

2‐3.景初中(237~239)、魏の明帝は、帯方郡の太守・劉(りゅうきん)と楽浪太守・鮮于嗣(せんうし)を海を越えて派遣し、二郡を平定した。(その後)、呉林は楽浪郡が本々(もともと)韓国を治めていた事を理由にして、辰韓八国を楽浪郡に編入した。これを韓の人々は怒り、帯方郡の崎離営を攻撃したが、韓の臣智・遵(じゅん)は帯方太守・弓遵(きゅうじゅん)と楽浪太守・劉茂(りゅうも)の兵によって戦死し、二郡は韓を滅ぼした。

3.辰韓は馬韓の東に在り、古老は、「自分たちは秦の賦役から逃れてきた亡人である」と云う。馬韓が東の地を割いてこれに与えた。言語は馬韓と同じではない。人は秦人に似る。国は始め六国であったが、十二国に分かれた。

4‐1.弁辰も十二国であるが、小さな邑(むら)に分かれている。それぞれ長が居て、大者を臣智という。弁・辰合わせて二十四国である。大国は四、五千家、小国は六、七百家で、総数四、五万家である。新羅はこの中の小国・斯盧(しろ)国であったろうと思われます。(『梁書』では新盧と書いています)。

4‐2.十二国は辰王に属し、辰王は必ず馬韓人がこれを決め、世々継承する。辰王は自ら王となり立つことはできない。

4‐3.男女の(相貌)は倭に近く、また文身する。兵仗は馬韓と同じである。その俗は、人がすれ違えば、皆、道を譲る。

4‐4.弁辰と辰韓は雑居している。弁辰の衣服や住むところは辰韓と同じである。かまどは家の西に在る。法俗は特に峻厳である。


B.『梁書』は、新羅について次のように云えます。

1.魏の時代には「新盧」と言い、(劉)宋代には「新羅」とか「斯羅」と言いました。

2.小国のため百済に随って、普通二年(紀元521年)に、王の姓は「募」、名は「秦」が、梁に奉献しました。この頃の官名には、「旱支(かんし)」という文字を使いました。

3.『魏志』や『後漢書』にはまだ新羅の名はなく、弁辰の国々は、官名に「臣智」の文字を使用していますから、紀元500年頃には国制が変っていたことが分かります。

4‐1.そして『梁書』は、新羅についての重要な情報として、「無文字、刻木為信」と書きます。
これは、范曄(はんよう)撰の『後漢書』が、烏桓ついて書いている所と一緒です。

4‐2.范曄・『後漢書』は烏桓について次のように書きます。
「大人が(人を)召し呼ぶところあるときは、木を刻みて信と為す。無文字と雖(いえど)も、部衆の者は誰も違反しない」。


4‐3.中国の歴史家は、烏桓も新羅も「文字がなく、木を刻んで意を伝えている」と言っているのですが、この「刻木」とは、楔形文字の木版バージョンと見做すべきで、メソポタミア‐オリエントでは粘土板や筒を使用しましたが、烏桓や新羅では木版を使用して意志を伝えました。

4‐4.木は朽ち易く、メソポタミア‐オリエントの粘土板のように、遺跡の中で発掘されるのは稀(まれ)か、困難なのでしょうが、保存状態の良い遺跡では、楔形文字を刻んだ木版が発見されるのは、今後、皆無とは言えないように思います。

4‐5.烏桓の人々は日本の皇統を形成しました。烏桓と同じ「刻木為信」という習俗を持っていた新羅の人々も、烏桓族の中の一支族であったと考えて、何らおかしくはないでしょう。そして、日本のカタカナと朝鮮半島のハングルは、楔形文字の記憶を留めたものだと考えることもできると思います。

4‐6.「2‐2」と「4‐3」の記述は、中国の史家によるもので、「2‐2」は朝鮮半島に倭人の国があったことを、「4‐3」は弁辰の男女は、倭人の風貌に近かったことを、私達に教えます。

C.日本の史書から

1.『日本書紀(以下、書紀と略記)』の一書[第四]は、素戔烏尊が天照大御神の国から、御子・五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひき)いて、新羅の「曾尸茂梨(そしもり)」に天降られたことを伝えます。

2.朝鮮半島にあった任那(みまな)は、新羅の西南にありました。但し『書紀』垂仁条は、任那の蘇那曷叱智(そなかしち)が、日本から任那に帰るとき、
持ち帰った「赤絹一百匹(ひとももまき)」を新羅に奪われたことを記します。

3.「2」には別の伝承があります。それは同じ垂仁条で、a.御間城(みまき)天皇=崇神天皇の御世に、意富加羅国(おほからくに)の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)[=亦の名を于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)という]の来朝があったこと、b.崇神天皇の崩御後、垂仁天皇に三年、彼は仕え、帰国する時、天皇から国の名に
「御間城」の名と、赤織の絹を賜ったこと、c.意富加羅国を弥摩那国(みまなのくに)と謂うのは、この縁によること、d.赤絹は新羅が兵(いくさ)を起こして奪ってしまった、という内容で記されています。

4.また、但馬国(たじまのくに)に帰化した天日矛(あめのひぼこ)は、新羅の王子で、この血筋から後に神功皇后が誕生され、日本の皇統には、はかり知れない大きなインパクトを与えました。

D.新羅の伝承

1.新羅の建国神話にはWebを概観しても、日本人が深く関わっているものを見つけることができます。

E.結論

古代日本と新羅の氏族の出自は、例えば大きな括(くく)りの氏族の中の一支族であるというような、極めて近い関係にあったと推測することができます。



参考文献: 中国版ウィキソース 『三国志 魏書三十』 維基文庫 自由的図書館 
        范曄撰 『後漢書』 列伝巻第八十
        姚思廉撰 『梁書』 列伝第四十八
        『日本書紀』 岩波文庫

 

 

 

 


                 

                              早朝のクレーン


 

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