カール・ポパー博士との仮想対話
A.歴史について
1.博士は、「ある著作について、それはヨーロッパの歴史に関するものであると言わ
れるような」と言う留保条件を付けて、「“実際に生じた通りの過去”の歴史は存在しえ
ない」(『開かれた社会とその敵』 みすず書房 1980 P399-401)と述べられま
す。その論旨は、それは一つの解釈であって、他の解釈もあり得る、それは歴史ではな
い、というものです。本当にそうでしょうか?例えば、記述が虚偽でなければ、シー
ザーがルビコン河を渡ったという事実は伝えられており、それは歴史だと言えます。解
釈は別の問題です。
2.博士は、「権力史がわれわれの裁判官であろうという観念」、つまり、自分たちは
権力者から見て受動者の立場にあったという観念から脱したとき、「われわれは権力を
統制下に置くことに成功するであろう。このようにして、われわれは、われわれの側か
ら、歴史を正当化できよう」(同 P410)と書かれます。これは民主主義者の態度で
あり、歴史能動主義と呼べるものだと思います。しかし、それまでの歴史を博士は拒否
されているように思えます。歴史ではない世界と、歴史となった世界をどのように私達
はそれを歴史と認識するのでしょうか?「前史」・「後史」とでもするのでしょうか?
両者は共に同じ時間の連続性の中にあります。歴史の中で起こった一つ一つの事実を、
既に書かれた歴史書や資料から集めて、それを組み立てるのは私達の仕事であるように
思います。
B.反証可能性について
1.博士の明晰さの証に、「反証可能性」論があります。この考え方の精髄(せいず
い)は、「すべての理論は反証されるまでの仮説に留まる」というものです。博士の立
てられた論理の整合性を凡人が崩せるものではありません。しかし、凡人の世界観には
どうもモヤモヤしたものが残ります。先端の分野の研究をされている科学者の皆さんに
は励みともなりましょうが、これが科学以外の世界広げられて推論されますと、世界は
仮象の上に成立しているということになりかねません。厳密な分野の規定によって解決
するとも思いますが、思考する人が何を考えるかという、思考の根幹にかかわる問題の
ようにも思います。
2.9月4日、ヒッグス粒子の存在が確認されたというニュースがありました。今、宇
宙は変化を続けていると考えられています。宇宙時間の中で、人間の生きる時間はたか
だか100年でしかありません。しかし、私はいま生きています。そして眼前には町が
広がり、世界が広がっています。この世界は力強く美しいものです。この世界は仮説の
上に成立しているのでしょうか?そうではないように思います。極論すれば、「反証可
能性」論は、私達の100年が宇宙時間の中では仮象のようなものでしかないという推
論にさえ導きかねません。このような推論を私は回避したいと思います。宇宙時間の中
の現在時間を確証する思考が必要のように思います。
C.マルクスの評価に関して
1.博士は、「“科学的”マルクス主義は死んだ。その社会的責任感と自由への愛が生き
延びねばならない」(同 P351)と、述べられます。
2.私は、マルクス主義は何故自由を失うのか、という視点から、マルクスを論考致し
ました。そして、①.彼の価値学説が人間の個性の多様性を切り捨てるものであること
を明らかに致しました。そして、②.「歴史の中に出現する合理的相貌を持つ思想は、
全て、必ずしも真ではない」という命題と、③.マルクスの世界は仮構の上に成立して
いる世界だという結論を得ました。マルクスの理論から、自由は願望ではあっても、生
まれるものではありません。
3.博士は、「科学は試行しかつ誤ることによって進歩する。マルクスは試行した」
(同 p245)と述べ、また、「マルクス思想は純然と歴史にかかわる理論、経済および
権力争奪の点での発展の、またことに革命の、将来の行程を予言することを目指す理論
である」(同 p246)、と述べられます。しかし、マルクス主義は科学ではありませ
ん。マルクス主義はそれを信ずる者に行動を求めます。その行動とはどのようなもので
あるのか?歴史は、マルクス主義のあるところ流血と死――この「死」には言論の自由
の死、報道の自由の死、信教の自由、良心の自由、人間の多様性とその自由など、人間
の基本的人権の死を含みます――の山が築かれたことを証言します。この事実は、自由
と民主主義を愛する者はそれと戦わなければならないことを、私達に教えます。
D.ヘーゲルについて、
1.私は、マルクスがヘーゲルから得たものは何であるかを知るためにヘーゲルを読み
ました。ヘーゲルは、世界は精神が現出したものと考えました。私は、この精神にスピ
ノザの自然を充(あ)てて理解して来ました。スピノザの自然は神でもあります。これ
は当時のユダヤ教にとっては異端であったらしく彼は破門されました。そういった自然
=精神の継承としてヘーゲルを考えたのです。この自然はマルクスにも引き継がれまし
た。ヘーゲルの精神をマルクスは自然としました。ヘーゲルの場合、精神が現出したも
のが人間であり共同体であり国家でありました。人間は同時に物体でもありました。マ
ルクスは、この精神を転倒させ物質に置き替えたのです。また、ヘーゲルは労働を哲学
に取り入れた人です。これは、マルクスがヘーゲルを取り入れた一番の要因です。人間
は労働=日々の営みによって世界を作っています。こうして世界を作っている人=働
く人が世界の主体だと、マルクスによって捉えられて行くわけです。
2.ヘーゲルの場合、歴史は精神の運動と現象だと捉えます。マルクスは歴史を物質の
運動だと捉えます。人間は、へーゲルに在って、自己を確立して行く主体として明確に
意識されています。これがマルクスになりますと、人間は、まだ主体を確立した存在で
はなく、階級闘争によって自己を確立して行く存在だと捉えられます。つまり、個々の
主体は、階級の中の一員として捉えられ、階級全体をひとつの主体と考える訳です。こ
の階級全体をひとつの主体として捉える考え方が、旧ソ連邦(特にスターリン)や、少
し前の中華人民共和国、そして現在の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の国家観とな
りました。換言すれば、人民の全体が不可分の一つの主体であり、国家である訳です。
この事実は、彼らが民主主義を獲得するには、人間が個人として主体として振る舞うと
いうとは、どういうことなのか考えることから始めなければならないことを、意味して
います。そして、中華人民共和国では、今、それを始めている人々が現れています。こ
れは中国の希望です。
3.博士のヘーゲルに入って行きたいのですが、なかなか入れません。博士はヘーゲル
を拒否されました。ドイツの近年の人種主義者とヘーゲルを結び付け、ヘーゲルに責を
帰していらっしゃいます。この論法はヘーゲルを禁書とします。
4.弁証法を、私は、人間の対話による人間の発展のための方法であると考えていま
す。私は、マルクスの方法に有効なものを認めません。しかし、ヘーゲルの場合、私
は、博士の言葉をお借りすれば、衒学的な、「即自態―対自態―即かつ対自態(注
1)」であるとか、「向自有」であるとかの言葉のアクセサリーを取り払った弁証法
と、自己確証の方法と、他者の承認という概念を、現代の私達が世界に臨む、その臨み
方として、認めてもよいと思っております。
注1:この語は、慶應義塾大学教授、三浦和男のチームが翻訳された『法権利の哲学』
(未知谷 1991)によります。
5.ヘーゲルは、1789年のフランス革命後のヨーロッパの動乱期に、プロイセンに
在って、プロイセンの国家としての在り方を考えた人です。それは、国家主義、民族主
義の国家観でした。ヘーゲルを読みたい者はこれらのことをよく理解して、1770~
1831年のドイツで生きた哲学者の叙述を読めばよいのだと思います。博士の本のど
こにも「禁書」という文字は出てきません。しかし、博士の書かれた「ヘーゲルと新
たな部族主義」は、読む者にヘーゲルに触れることさえ禁止させてしまうほどの激しさ
を持ちます。私たちは、この博士の批判も弁えて読めばよいのです。
コスモス
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