いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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マスコミの存在意義

2004年11月19日 21時39分55秒 | 社会全般
感想に続いて考えたことを書いてみました。賛否両論いろいろあると思いますが、是非コメント宜しくお願いしますね。



私はマスコミが今まで悪行を重ねてきたのだとしても、その存在は必要であると認識しています。それは、市民レベルでの活動では何の権力も持ち得ないからです。マスコミという権力集団がひとたび味方として市民側についたならば、方法論の適否は別としても相当の権力として作用すると思います。

そうした、市民側の活動や意見等をある種の権力に変えてくれる可能性があるものは、現在のところマスコミしかありません。いわば変換器と増幅器の効果がマスコミにはあると思います。これを市民側が利用して公権力に対抗する一つの手段と考え、マスコミの存在は正当であるというのが私の意見です。


マスコミと言っても、大きく2つに分けられると思います。テレビ等の映像を中心としたメディアと、新聞や雑誌等の文字を中心とするメディアです。前者はどちらかというと大衆迎合型で、利用者のアクセスや選択は容易です。利用者は自分で情報を探す必要がなく、アクセスしてさえいれば自動的に情報が手に入ります。即時性に優れ一般大衆への影響力は大きいと言えます。
後者は利用者が選択して初めてアクセスできます。時間は遅くなりますが、情報分析や熟慮が必要な情報に優れていると思います。利用者は自分である程度目的とする情報を探す必要があります。一般大衆への影響はテレビに比べると劣り、利用者への影響力はあると言えます。どうも、非難の対象になりがちなのは前者ではないかと思います。報道することで、取材者側の行動や直接の行為が一般大衆に伝わりやすいからだと思います。





以前、小学生の同級生殺害事件がありました。被害者の父親は報道する側の人で、新聞記者でした。その父親の発する言葉や、記事に載る文章は、取材する側とされる側の両者の真実があると思いました。これは、テレビのような映像中心のメディアではなかなか困難な面があって、批判を受けていた「酷いこと」や「配慮の足りないこと」が起き易いかもしれません。テレビでは取材する側に、報道以前に初めからストーリーがあって、一般大衆がこのような反応をしてくれたらいい、みたいな面が出てしまうからかもしれません。でも、新聞のような文字のメディアの場合には、読者には知りえない人と人の接点というかコミュニケーションがあって、それから取材とか記事を書くということがあるのかな、と思います。例えばスポーツ選手の心理面を取材したり、「関係者によると」とかの曖昧な表現に見られる公式発表では普通知りえない情報を掴むことなどはきっと出来ないでしょう。取材する側の気持ちと取材される側の気持ちがある程度通じる部分が必要でしょう。その点で、テレビとは違いがあるような気がします。でも、雑誌とかで写真狙ったり、特ダネ狙ったりみたいなことで、倫理に反するような面があるのは事実でしょうね。文字系のメディアが全部良い子とも思っていません。





ネットは色々な情報を仕入れたり、意見表明したりできるためとても便利で、個人が利用する時、これだけで完結できるかもしれないのですが、もとの情報は誰かが入手する必要があります。もし各個人が自分の知り得た情報を書き込むニュース板を作ったら、非常にローカルな情報には強くなると思いますが、政治や経済、裁判というようなニュースは書き込む人が異常に少ないので、ほとんど情報が集まらなくなってしまうでしょう。ですから、誰かが専門に情報を集める必要があると思います。


従ってマスコミの存在の意義は、まず情報を集めることだと思ってます。これは先に述べたように、人脈とか人の繋がりに依存する面があるということです。ネット上の私たちに重大な情報を流す人はそう多くはないでしょう。ネット上の人の繋がりは、面と向かって話す現実とはちょっと違うからなのかな、と思います。





マスコミのもう一つの意義は、権力の一種だということです。冒頭にも書きましたが、年金問題や裏金問題にしても、マスコミがキャンペーンを張って、行政を動かすということがあるのです。もちろん提灯記事もときにはあるかもしれません。ですが、マイナス面より遥かに上回るプラス面があると思うのです。犯罪被害者の救済のための活動は以前からありましたが、マスコミに取り上げられるまで誰も気にも留めてなかったと思います。被害者を丹念に取材したりしていたことが、このような形で生かされることもあります。北朝鮮拉致問題もマスコミが大きく取り上げるようになって、政府が動きました。何十年も誰からも放っておかれた問題は、今や国民全体の問題となっています。もしマスコミがこうした役割を果たさずに、ネット社会の情報を共有する人達が政府を動かせたか、となると疑問です。やはり社会の信任はマスコミにあるのが現状で、一般大衆もそれを無意識のうちに支持していると考えられます。ネット社会が重要性や信頼性を作り上げるには、まだまだ時間がかかりそうです。





このような権力を行使する立場にあるマスコミは、当然その責任と倫理に一般社会よりも厳しさが要求されます。誤った行使は非常に危険だからです。多くの非難はそこにあると思います。もし何も行使できる力がなかったら、ごく普通の人たちと何ら変わらないわけで、一般的な規範に従うだけで済むでしょう。しかし、特殊な権力を伴う集団あるいは組織なのですから、その権力による見えない強制力が誤って発揮されたりすると、まるで誤認逮捕などのように取材対象をひどく傷つける結果になるのです。しかもマスコミは、それが自分達が原因であることを明確に意識していないが故に、危険だと思われるのでしょう。また、情報取得が最優先されるような行動や行為が目につくのは、特殊な権力集団であることを無理に振りかざしていることが原因ではないかと思います。


色々考えましたが、最終的には各個人が自分に入力される情報をどうやって手に入れるか、入力情報をどのように考え、受け止め、分析するかで、マスコミへの反応も変わるでしょう。重要度が高い人とそうでもない人では、反応が違うのではないかと思います。今はネットがあるから本当に便利だし、情報入手は格段に楽になったと思います。おまけに自分の意思や考えを発信できるし、討論も可能ですし。意見交換ができる場が増えることはとても良いですし、自分が考えるきっかけを提供してくれますね。

今回みたいに、マスコミについて考えたことはありませんでしたし、何となく批判とか文句を言う程度でしたから。それも誰かに伝えるのではなくて、テレビ見てるときに叫んだりするくらいで、聞いてるのは家族くらいですから。


批判を受けたマスコミはやっぱり反省すべきですし、それを今後どのように生かすのかを皆さんに知らしめる義務がありますね、きっと。内輪の反省会だけじゃ、社会は許容できなくなってきてますから。

おっと、私も気をつけていこうと思ってますよ。前に書いた記事でさんざん「バカ」とか「愚か者」とか書いたんですが、ちょっと反省してます。マスコミじゃないから許してくだされ。

マスコミ批判の感想4

2004年11月19日 13時45分20秒 | 社会全般
批判する側は多数派であればあるほど、相手に謝罪を要求するような気がします。「マスコミが悪いんだ」というのは、「マスコミ」という人物がいるわけではないのに、何故か今議論している人や理解派が「マスコミ」という人物そのものであるかのように非難し謝罪を求める傾向があると感じます。




かつて日本が戦争中に酷い事をした、ということで(真偽や賛否は別として)中国人や韓国人の方々に「日本人はかつて悪い事したんだ、謝罪しろ」と自分個人に非難されたらどうするのでしょう。自分自身がその悪事に加担したかどうかに関係なく謝罪を要求される。同じ日本人というだけで全日本人の責任を追及される。どう考えても議論というレベルではありませんね。それと同じことがネット上で起こってしまうのは、残念です。「おまえはマスコミだから、一緒だ」的責任追及は意味がないと思います。


個々の事例や問題について検討するとなかなか終われないので、短時間での議論は難しいですね。参加人数が多くなれば、同時にコメントを発したりしてしまい重複も避けられなくなります。レフェリーの存在がない状態で議論しなければなりませんから、やはり各個人の考えやモラルに委ねられることになります。議論の真っ最中のコメントを時間が少し経ってから誰かが読んでみた時に、「ためになるなあ」とか「ふむふむそうか」とか「共感できるな」とかそういう感想が出るような議論があればきっとよいのではないかと思います。虚しい罵り合いでは得られるものもありませんし、読むのが辛くなりますね、やっぱり。


でも、関心が高く意見がストレートに沢山出てくるということは、テレビとか新聞とか他の媒体ではあり得ないので、ブログは非常に優れた手段に違いないと思います。意見が自由に言えることも評価できる反面、その場にいるごく少数の参加者たちだけの意見であるのに、大多数の一般的な人々の意見であるかのような錯覚が起こり得るのではと危惧します。ある特定のブログとか掲示板に集合している人たちは、その時点である意味特定集団な訳で、その他の多くの人々はどうなのかは調べてみなけりゃ分らないと言えるでしょう。


いくつか指摘がありましたが、批判は簡単、ではどうすべきか?ということになると、建設的意見はかなり少なくなりますね。私もそうですが、「違うだろ」とか「不満なんだよ」とかはいくらでも言えるのですが、では解決策を出してみようとなると、「うーん」と詰まってしまいます。考えることが必要ですね。これも、意味のある議論をする時に大切だな、と思います。

マスコミ批判の感想3

2004年11月19日 10時49分05秒 | 社会全般
コメント欄に書くのって結構難しい。短い文章の中で、的確に表現して尚且つ言葉足らずや説明不足にならないような文章は、難しいのです。これも双方の誤解を生む一因になっているんじゃないかと思う。どうしても直接的な表現になり易い。思いが強かったりすれば尚の事気持ちを表す厳しい言葉を選んでしまい、自分の本当に伝えたい意見と少しずつ乖離していくかもしれません。

それと、意見の数がだんだん増えるにつれ、自分と同じ意見だと心の中で「そうだ、そうだ、その通り」と多数派が更に高揚していくように感じ、次々と意見の厳しさがupするような印象です。多数派の心理では珍しくない現象なのかもしれませんが、本題とは離れてしまうんですが、昔の“糾弾せよ!”みたいなのとか“自己制裁!自省せよ!”のようなのが(正確にはわかりませんが、共産系の運動?みたいなのです)連想され、読んでて怖くなります。


確かにマスコミもよくこういうことをやると思う。コメントが発言者の真意とかけ離れて伝えられる、一部だけ公表されて、意味が変わってしまう、などですね。そこから先は言葉の独り歩きで、コメント出した人が攻撃されちゃったりする。これと同じような現象が、コメント欄でも起こってる一面があるのではないでしょうか。


相手が使った言葉を取り上げて、非難することも多いけれど、何だか子供の口喧嘩みたいになってしまって、ちょっとどうかなって感じがします。揚げ足とりみたいで・・・・。定義がきちんとなされていて、使用する人達に共通認識がないと、同じ言葉を言っても読み手の解釈で変わるなら、それを非難対象にしてもしかたがないんじゃないかな。

例えば「今は女性蔑視が少ない社会だから、女性の社会進出は促進される」と言った場合、「女性蔑視は少ない」は違うだろ、とか。書き手は(以前に比べて)を意図してるけど、読み手は考慮せず否定する。単純に自分の周りの実例とかで判断して「少ない」を否定する。「社会進出」とは何事だ、社会に参加してないと言うのか差別だ、とか。法整備がないから「促進」は違う、とか。

要はいくらでも言い方次第で見た目は「批判」風なものですが、本質的議論にはなってないこともあるのではないかと思います。正確な数値データのような明確なものなら、白黒はっきりしますから、問題ないんでしょうけれど。




多くの非難の声があることを伝えるのは大事だと思いますが、それぞれが全部を表現してもかわらないので、そこからは非難があるならどう変えるべきかということの方が有意義と思います。皿を割ってしまった子供に「どうして割ったの!、バカ!」と言っていくら子供を責めても皿が元に戻る訳でもなく、子供は嫌な気持ちになるだけです。皿を割ったことを責める以上に、何故割れたか理解してもらい、今度から割らないようにするには何に気をつけるのか、という視点から教えてあげる方が大切ではないかと思います。

マスコミ批判の感想2

2004年11月19日 10時46分45秒 | 社会全般
続きです。



理解派にしても、マスコミの肩を持ってるわけではないのですが、一定の理解を示すと「お前はマスコミの仲間だ」というような感じで攻撃されてしまいます。ちょっと怖いですね。

このような現象は日本だけなのか知りませんが、今までにも同じような印象を受けた事件として思い出されるのはイラク人質事件ですね。初めの時も、この間の時も、ネット上では当事者やご家族に対して罵詈雑言が蔓延していました。マスコミの論調に同調した人達が、行き過ぎた発言を繰り返し、当事者以外にまで誹謗中傷を行っていました。

当然のことながら少数の擁護派は叩かれました。このことはマスコミがやってることと何にも違いがなく、一方良心ある人達もたくさんいた訳で、これらが皆「ネットの住人は酷い」みたいに同一視されたくはないのでは?全部をひっくるめて「マスコミ」と呼び非難できるのかな?でも自分が非難する立場にいると、忘れがちになるものです、自分の行為を。

私自身もそうです、大した人間ではないので。色々間違ったりしてます。

吊るし上げ状態の時、「同じ事をマスコミはやってきたんだ」的非難の浴びせ方は、同じように仕返ししていいんだ、ということでもあり、次につながるものがないように思えます。


非難はあっても当然ですし、批判を受けて次の発展とかにつながっていけるなら意味があると思いますね。で、非難の種類はだいたい似たり寄ったりのものなら、一定の非難が出尽くしたらあとは「こんなのもあった」みたいな個人のカルト的知識披露合戦みたいになってしまうので、だいたい出尽くした後は、一言「枚挙に暇がない」で済んでしまうように思います。皆が発言している面と違う面から見た非難とかなら、より意味があると思います。





マスコミ批判の感想1

2004年11月19日 10時40分51秒 | 社会全般
私はこれまで地震の被災地のこととかは、あまり記事に書きませんでした(自衛隊もっと出せ、とかくじ当選金を義援金にと書きましたが)。被災地の状況は報道で知るだけですし、ボランティアの方々やいつも批判してる自衛隊員たちは現地で頑張っていますし、それに比べたら自分が恥ずかしいので何も書けなかったというのが本音です。


いくつかのブログを読ませて頂いて発見したのですが、ネット世界には注目の話題があったらしい。それがマスコミ批判。
発端は新潟中越地震でのマスコミに非難が集まったこと。被災地において酷い行為がたくさんあるということである。ネット上では一種の紛争が起こっているかのようだ。多数のマスコミ糾弾派とマスコミ内部に存在する人達の反論、少しの理解派の人達などによって意見が激突していたようだ。





昔からマスコミ批判は存在してきたし、マスコミの誤報や悪辣ともとれるような行為も同じように存在していた。かつての方法と言えば、読者投書欄に投書するか各メディアに電話等で抗議するくらいだったが、現在はネットがあり且つ個人発信型のブログがある。以前に比べれば非常に優れた手段を各個人は手に入れたと思う。


そんな中で、この紛争だ。色々な記事やコメントなどを読んで感じたことを書いてみたい。


最初の感想は、クラスメートがイジメに遭ってる現場を見てしまったようです(笑)。マスコミは今までの悪行三昧が祟って、非難の集中砲火を浴びている。ある種の吊るし上げで、ごく少数の理解派(マスコミ側の言い分などに理解を示す姿勢の方々)に対しても、まるでその人がマスコミの代理人であるかのような激しい部分も多い。


多くの非難派が指摘していたように、今までのマスコミには不適切であったり、非人道的であったり、倫理観が欠如していたりという個々の事例はたくさんあったのでしょう。それはマスコミ側も別段否定はしてないでしょう。その問題と、一種の権力集団と化しているマスコミの持つ存在意義(あるいは極論すれば不要説)についての議論は別ではないかと思います。


「今まで沢山間違いがありました、だから悪いものなので要りません。」ということではないでしょう。医療過誤がたくさん問題になったからといって、医療機関が不要という話はしないはずです。今まで改善せずに来たマスコミは自浄作用がない顕れなので必要なし、とも言えないでしょう。一般的にはこの意味が理解されると思います。