新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
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世界遺産に登録されている「カルタゴ遺跡

2024年02月20日 11時49分24秒 | 旅行

明日まで家を離れています。
 
いつもの「つぶやき」の代わりに今日は「2800年前の大国へタイムトラベル」と称して世界遺産に登録されている「カルタゴ遺跡」を紹介します。

世界遺産に登録されている「カルタゴ遺跡とは」

チュニジアの世界遺産であるカルタゴは、チュニジアの首都チュニスの郊外、地中海を望む遺跡である。紀元前9世紀、海洋民族のフェニキア人がこの地に都市国家を築いたのが町の始まりで、古代フェニキア人は、紀元前6世紀までに地中海貿易を独占し、カルタゴは覇権を握るのだが、勢力を拡大してきたローマと衝突し、カルタゴの街は全滅してしまう。
最盛期には、領土を北アフリカ沿岸沿いからスペインのイベリア半島の半分まで拡大し、イベリア半島で豊富に産出した金、銀、銅によりカルタゴは栄華を極めました。カルタゴは海賊や他国が恐れる強力な海軍力を有しており、それがシチリア戦争と多いに結びつきます。



「ディドン(放浪者)」とも呼ばれた女王エリッサは、命を狙われティルス(現在のレバノンのスール)を脱出。キプロス島を経てカルタゴにたどり着き、街を建設したのが紀元前9世紀のこと。
カルタゴは、フェニキア語の「カルト・ハダシュト(Kart Hadasht)」、日本語で「新しい町」という意味だそう。
チュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を開催したことから、紀元前814年がカルタゴ建国年とされています。
海洋都市のカルタゴは、優秀な航海術を持ち、サルデーニャ島やマルタ島、シチリアにも侵攻していき大国となっていったのです。
しかし繁栄にも終わりがあり、紀元前3世紀から約100年続いた第一次から第三次ポエニ戦争でローマに敗れ、カルタゴはとうとう陥落。街は完全に破壊され塩で埋め尽くされ、不毛の地になってしまいました。
一旦は廃墟になったカルタゴですが、ローマのカエサルによって再建。アウグストゥスに引き継がれ、2世紀ごろにはローマ帝国第3の都市にまでなったのです。
しかし、ローマ帝国自体が5世紀には衰退し、7世紀にはイスラム教徒が侵攻してきて、カルタゴは衰退してしまいました。

 
カルタゴの中心地だった「ピュルサの丘」

一見、荒涼とした丘に見えるのは、カルタゴの中心地だった「ピュルサの丘」。ピュルサという名前の由来は、エリッサの機知を物語っているんです。
エリッサがこの場所に街を建設する際、先住人から「牛の皮(ピュルサ)一枚で覆うことができる面積の土地しか譲れない」といわれたのだとか。

 

エリッサはこれを了承し、1頭の牛を求めます。その皮を細く割き、細長い紐を作り、この丘の周りを囲い、丘全体を手に入れたそう。

 

比較的新しい建物は「サン・ルイ教会(アクロポリウム)」で、1270年の十字軍遠征中に没したフランス国王ルイ9世に捧げられたものです。

礼拝堂が置かれたのは1840年ですが、現在の大聖堂は1890年にフランスによって建てられたものになります。
カルタゴの遺跡のほとんどはローマ時代のものですが、ローマの遺跡の下に、それ以前のカルタゴの住居跡が見つかっています。


 
カルタゴの面影を残す遺跡トフェと古代カルタゴの港

住宅地の中にある遺跡は、カルタゴの面影を残す数少ない遺跡「トフェ(タニト神の聖域)」。
火の神バール・ハモン神(フェニキアの古代宗教神)、天と豊穣の神タニト(カルタゴの守護神)が祀られた聖域だったそうです。
現在残る遺跡には、生贄とも考えられている人の骨が入った「骨壺」が発掘された墓石がずらりと並んでいます。

 

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