今回は、「伊万里 色絵 異人クルス文ふりだし」の紹介です。
箱と共に
正面
正面の斜め上方から
正面から左に45度回転させた面
異人さんが二人見えます。
正面から左に90度回転させた面
正面から右に90度回転させた面
大きく、クルス文が描かれています。
底面
この「ふりだし」についても、今は止めてしまっている拙ホームページの「古伊万里への誘い」で既に紹介していますので、まず、それを次に紹介し、しかる後に、現時点での若干の考察を試みたいと思います。
<古伊万里への誘い>
*古伊万里ギャラリー58 古伊万里様式異人クルス文ふりだし (平成15年3月1日登載)
信教の自由が保障されている現代人から見ると、「なんとハイカラな外国好みのものなのだろう!」と思ってしまう。
私もその一人で、そういう点を気に入って購入したものである。
しかし、いざ自分の物となって、よく観察し、考えることができるようになってから、愕然としたのである。
キリスト教弾圧の厳しかった江戸時代において、果たしてこのような物が存在しえたのであろうかと・・・・・。
だが、かの藩窯作である鍋島焼においても十字架を描いたものが存在するという。九州は隠れキリシタンの多い土地柄である。古伊万里もまた九州で作られたものであるから、クルスを描いた、このようなものが存在しえたとしてもおかしくはないであろう。
そうはいっても、それを作り、大切に伝えるエネルギーは、現代人には計り知れないものがあったろう。恐らく、命がけで作り、伝えてきたのではなかろうか。
そう思うと、愛らしく、美しく見えるその陰に、ゾットするような緊張感さえ漂ってくるのである。
江戸時代中期 高さ:7.4cm
*古伊万里随想26 異人さんと古伊万里 (平成14年10月筆)
旧盆で実家に帰った時のこと。姉から、「ロンドンにいる娘が10月上旬に子供をつれて帰ってくるので、その時一緒に食事をしませんか。」との話しがあった。
ロンドンにいる姉の娘である私の姪は、4年程前にデザインを学びにロンドンに遊学したものの、そのうちにスコットランド人と結婚し、そのままロンドンに居ついてしまったのである。
姉は、自分が早く結婚したこともあって、なかなか結婚しない娘にやきもきしていたが、その点だけは安心したようだ。
しかし、姉の住まいは、童謡作家として有名な野口雨情の生家の隣り街。
「赤い靴、はーいてた、女の子ー、異人さんにつれられて行っちゃった・・・・・」のメロディは何度聴いたことか!
姉は、当初随分と悩んでいたようである。しかし、「女の子」にとって、やはり「結婚」は最大の幸せ、そのうち、なんとか心の整理がついたようで、結婚を許すに至ったわけである。
話は前後し、まとまらなくて恐縮であるが、先日、旧盆の約束による姉からの招きで姉の自宅に伺い、姪夫妻及びその長男と暫くぶりに再開し、食事を共にした。正確には、2年程前に、結婚直後の御披露目に来日した姪夫妻には会っているので、夫妻とは2年ぶり、夫妻の長男とは初見である。
私は、初めて異人さんと親類として交わった。姪の夫の異人さんの長男は、私の姪の長男でもある。私とは血がつながっているのである! しかも、その長男くん、4年程前に亡くなった私の父(長男くんの曽祖父)の面影を宿している! 何という奇妙! 何という因果! 何という至福! 以前のテレビのコマーシャルではないが、「世界は一家! 人類は皆兄弟!」そのものではないか。
私は、また、このことを、すぐに古伊万里に連想してしまう。300年も前にヨーロッパに旅立ち、遂には、マイセン等でそれが写され、今や、その子供に相当するマイセン等のやきものと共に生まれ故郷に戻ってきている。何という奇妙! 何という因果! 何という至福! 人間の世界のみでなく、器物の世界においても同じ様な現象が生じているのだ。「世界は一家! 器物は皆兄弟!」である。
ところで、「異人さん」というと、30年近く前の頃からだったと思うが、「紅毛手」という「異人さん」を描いた古伊万里の人気が高まったことがあった。今でも根強い人気があるようであるが、一時期相当の高まりを見せたのは事実である。
私も時代の波に敏感な(?)、意志薄弱な、ミーハー貧乏コレクター。世間さまの動きに合わせ、「紅毛手」に興味を示して動きまわったことがある。そうした状況下、昭和57年に購入したのが写真の「ふりだし」(高さ:7.4cm)である。
くだんの「ふりだし」、二人の「異人さん」を色絵で描き、裏一面に大きく染付でクルスを描いている。「異人さん」の描写もなかなかリアルで、一見して「異人さん」だ。これほど写実的な「異人さん」を描いた「ふりだし」も珍しいが、なんといっても、この「ふりだし」 を特徴付けているのは染付で大きく描いたクルスである。
キリシタン禁教令のきびしい江戸時代の下、これほどまでにはっきりとクルスとわかるものを描いたものは珍しい。このようなものは、また、かくれキリシタン物として、これまた一時人気を博したもので、私がミーハーコレクターであったことを裏付ける貴重な証拠品でもある。
なお、この「ふりだし」については、江戸時代には、赤絵の秘法を守るため、赤絵を作れる者は11軒とも16軒ともいわれる赤絵業者に限られていたのであり、赤絵業者は藩の厳しい監視下におかれていたのであるから、厳しい禁教令の下、このようにはっきりとクルスとわかるようなものに赤絵など付けるはずがない、ということから、この「ふりだし」は古伊万里ではないという意見を言う者もいた。
しかし、研究の進んできた現今ではどうだろう。
赤絵の技法そのものは、それほど困難な技法ではないと言われるようになった。また、赤絵業者を一か所にまとめて限定したのは、分業による産業としての磁器生産体制の確立と安定的な税収の確保にあったとも言われるようになってきた。
そうだとすると、正規の生産体制に組み込まれない、弱小零細な、いわゆる「かくれ赤絵屋」というものが存在したであろうことが想定できるのである。この「ふりだし」、こうした「かくれ赤絵屋」が絵付けした『古伊万里』ということにはならないだろうか。
以上の「古伊万里への誘い」の記事は、この「ふりだし」は、江戸中期に、「かくれ赤絵屋」が絵付けしたものだろうとの前提で書きましたが、今考えますと、果たしてそうなのだろうかとの疑問が湧いてきます。
まず、製作年代ですが、江戸中期よりももっと遡るのではないかと思えるんです。特に確証はないんですが、これまでの経験と勘からして、もっと遡り、江戸前期はあるように見えるんです。底面などを見ますと、古格を感じますし、絵付けの調子などからは、古九谷様式の伊万里と思われるからです。
また、この「ふりだし」が何処で焼かれ、何処で赤絵付をされたかですが、その点については、「世界をときめかした 伊万里焼」(矢部良明著 角川書店 平成12年12月25日初版発行)が、次のように書いていますので、それが大きなヒントになると思われます。
「この北島家の発掘結果は、いま一つの筆者の予察に応えてくれる内容のものとなった。それは、古九谷様式の色絵は、基本的に国内向けの色絵磁器であったから、輸出を主眼とした赤絵町では、おそらく主としては焼かれなかったのではあるまいかという仮説を立てていたが、これをひとまず消極的ながら証明もしてくれた。なぜなら、古九谷様式の色絵陶片はほんの数片出土しただけであり、それは柿右衛門様式の陶片と比較して、まさしく九牛の一毛であったからである。
この北島家の赤絵町遺跡発掘のほか、古九谷様式の色絵陶片が出土した窯場は、外山の山辺田窯第4号窯・2号窯、および大外山の嬉野町の不動山窯など、いずれも中心部をはずしている。裏を返せば、17世紀にあっては、赤絵町は輸出物生産に支障をきたさないために設置されたものであろうという予察を強めてくれる結果となっている。したがって、この段階では赤絵は外山の業者も行うことができたから、外山の柿右衛門家も「申上口上覚え」にみる赤絵再興の申請をすることができたわけである。さらなる詳しい研究は、11軒とも16軒ともいわれる、ほかの赤絵屋遺跡の調査を期待して待つことにしよう。 (P.48~49)」
以上のことから、この「ふりだし」は、17世紀に、外山や大外山の窯場で作られ、そこで赤絵付もされたのではないかと思われるわけです。これほどまでにはっきりとクルスと分かるものに、藩の厳しい監視下におかれていた赤絵業者のもとで赤絵付など出来るわけがないわけですが、外山や大外山であったなら、可能性は高いと思われるからです。しかし、「世界をときめかした 伊万里焼」も書いていますように、これは、まだ、確定したことではなく、私の推測の域を出ないものであります。
製作年代 : 江戸時代前期
サ イ ズ : 高さ;7.4cm