Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

伊万里 染付 独釣図中皿

2020年11月06日 11時57分15秒 | 古伊万里

 今回は、「伊万里 染付 独釣図中皿」の紹介です。

 

表面

 

 

独釣図部分の拡大

 

 

裏面

 

 

高台内の銘部分の拡大

銘:二重角福

 

製作年代: 江戸時代前期

サ イ ズ : 口径;19.6cm

 

 

 なお、この中皿につきましては、今では止めてしまっている拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介しているところです。それで、今回も、その紹介記事を、次に、再度紹介することで、この中皿の紹介とさせていただきます。

 

 

 



 

                      <古伊万里への誘い>

 


 

*古伊万里ギャラリー44 古九谷様式染付独釣図中皿 (平成14年9月15日登載)

 

 

 縁を墨ハジキの技法を使って雲だか波頭だかなんだかわからない文様で表わして額縁のようにし、余白をたっぷりとって、その中に独釣図のみを描く。

 釣竿の先には糸だけがのぞく。その先には針と餌が付いているのだろうか? あるいは、中国の故事にならい、糸だけをたれ、針と餌を付けないで釣をしているのだろうか?

 それは、見る者の学問の程度、教養の程度によって、さまざまな解釈が可能であろう。

 糸の先に針と餌の存在を確認するもよし、不存在を確認するもよしである。

 また、釣り人は、水面の中の浮き島みたいな所から釣をしているのだろうか、あるいは岸辺からなのだろうか?

 それも、見る者の想像力の多少によって異なった結論に到達することであろう。

 存在そのものを手間・暇かけて克明に描き、想像力の入り込む余地のないように描くか、そうではなく、見る者の想像力にゆだねるように描くかは、描画態度の分水嶺である。風韻があるかないかの分水嶺でもあろう。

 その点では、この皿は後者に属するのではないかと思って選んでみたのであるが、皆さんはどうお思いであろうか?

        江戸時代前期    口径:19.6cm 

 

 

 


 

*古伊万里随想24 「富岡鉄斎を学ぼう」を読んで (平成14年8月筆)

 

 

 8月24日、新聞の下の方に「芸術新潮 富岡鉄斎に学ぼう」の広告を発見。さっそく書店に赴いて購入。

 鉄斎については、「老いてますます画境盛ん。歳を重ねるほどに良い絵を描いた。相当高齢なまで絵を描く。」程度の知識しかない。もちろん、画集や美術館等で見ただけであり、粉本ですら所蔵していない。

 鉄斎といえば、その描いた人物画から、私は、勝手に、その人となりを、豪放磊落で常に酔っ払っては寝転んでいる禿・デブと思い込んでいたのである。

 ところが、この本によると、小柄で、むしろきゃしゃだったとのこと。また、写真もあるのでわかるのだが、禿どころか、白髪白髭で仙人のような風体である。また、家人の話によると、寝転がったりしていることはなく、常に端座していたとのこと。なんとなく、我が郷土の画家、小川芋銭を思い浮かべる。ただ、鉄斎は、自分は儒者だ、画家ではない、と言い張ったとのことであるから、画家であった小川芋銭とはちょっとちがった存在ではある。

 鉄斎の言によれば、「・・・・・南画の根本は学問にあるのぢゃ、そして人格を研かなけりゃ描いた絵は三文の価値もない・・・・・」、「私の画を見て下さるなら、第一に画讃から読んで貰い度い。私は意味のないものは描いてゐないつもりぢや。」とある。また、「先日狩野芳崖の展覧会が博物館にあったので見に行った。あなたは西洋画家だからどうだか知らないが、画は風韻が第一だ。芳崖の画には風韻というものがない。あれは時間さえかければできる画だ」と手厳しい。

 絵は、高い精神性からほとばしる人格の発露だという。風韻が第一で、技巧やテクニックなど二の次、三の次とされる。それだけに、見る側に高い精神性や人格・教養等が要求されるのである。見る側に描き手と同等の人格を備えていなければ、描き手を正当に理解できないし、その絵も正当に評価できないということになる。

 表面上は漫画チックで楽しそうに見えても、その実、技巧の極限を超えた美の表現方法の深淵と真理への幽愁をのぞかせるのである。まあ、見た目よりは、はるかに肩の凝る画だということだろうか。

 この鉄斎流の眼で古伊万里を鑑た場合はどうなるだろう。もっとも、そもそも古伊万里は、学問などのない職人による産業としての産物であり、芸術的な意図などで生まれたものでは決してないので、鉄斎流の眼での評価の対象とするというようなことにはなじまないものではあるが、ここでは、あえて、鉄斎流の眼で鑑たとしたらという仮定で話を進めてみたい。

 まず、真っ先に、「鍋島」は狩野芳崖の作品に相当することになるであろう。「そんなものは、手間・暇かけりゃできるよ!」、「風韻がなくて、芸術作品などといえないね!」と言われそうである。現在、「鍋島」の中でも「盛期鍋島」が一番評価が高く、「初期鍋島」や「古鍋島」はそれほどの評価を受けていないが、鉄斎から見たら、「お前達、見る眼がないね!」ということになるのであろう。

 その点、初期伊万里は、彼から高く評価されるのではなかろうか。初期伊万里の中には「風韻」ふんぷんというようなものがある。きちっと規格化されたところがなく、のびのびと、生命の躍動感みたいなものを感じさせるようなものもある。それなど、正に気韻生動、鉄斎から絶賛されそうである。

 鉄斎の作品では、特に友人宛に描いた、いわゆる「為書」に優品が多いとのこと。それだけに気持がこもり、精神性が強く発露するからであろう。

 ところで、鉄斎は、自分は儒者であって画家ではないと言い張っていたということではあるが、生活の糧のため、毎月相当数の絵を描かねばならなかったらしい。古伊万里の中で、そうした生活の糧のために描いたものに相当するのが、古九谷様式ではないだろうか。鉄斎の絵のスタンダードに属するものは、古九谷様式に相当するのではないかと考えている。それは、鉄斎の絵の中には、生き生きとした生命の躍動感のようなものを感じるが、古九谷様式にもそのような感じを抱くからである。

 ここで、話は脱線するが、我が家の古九谷様式のコレクションの中から、私の独断と偏見で、最も鉄斎の気持に近いと思われるものを選んでみたい。鉄斎好みとなれば、ここは、やはり、極彩色の色絵というよりは、藍九谷あたりということになるであろう。

 そこで選んでみたのが画像の中皿である。皆さんはどうお考えだろうか? 鉄斎の好みからはほど遠いと感じられるだろうか? やはり、これは、私好みにすぎないと考えられるのだろうか?

 次に、柿右衛門様式についてはどうだろう。私は、鉄斎の目には入らなかったのではないかと考えている。それは、存在していても目に入らなかったのではなく、存在していなかったから目に入らなかったのだと考えている。鉄斎の時代には、現在里帰りしている盛期の柿右衛門様式に属するような一群は、我国にはほとんど存在していなかったはずだからである。鉄斎の時代に存在していた柿右衛門様式の多くは、後期の柿右衛門様式に属する、精彩を失ったものたちであったから、鉄斎の目には“食器”としてしか写らなかったのではないかと思えるからである。