今回の問題は、こきりこ節の歌詞にカッバーラを見つけることです。カッバーラなので、飛鳥昭雄氏の『失われたカッバーラ「陰陽道」の謎』がヒントになります。カッバーラの初心者用です (^_^;)
コキリコの竹は 七寸五分(しちすんごぶ)じゃ
長いは袖(そで)の かなかいじゃ
マドのサンサは デデレコデン
ハレのサンサも デデレコデン
全文
この歌詞で大事なのは七寸五分。七と五が出てくるからには七五三を構成する三も出てくるはず。実際、サンサは三叉で三が出てきます (;・∀・)
このように、一番目の歌詞で、これがカッバーラ(かんばら)だと主張しているわけです。だから、マドのサンサもハレのサンサもカッバーラ。デデレコデンも当然、カッバーラで解釈しなくてはならない。もちろん、このヒントも『失われたカッバーラ「陰陽道」の謎』に描かれている (~o~)
門松の竹は生命の樹を象徴
サンサが三叉なら、三叉を縦横に組み合わせた九字が連想される。マドは円(まどか)で陽の円。ハレは晴れるを連想しますが、元々はお月見がハレの日。月は陰だから、ハレとマドで陰陽となります。陰は四角だから四角と円の陰陽とも見なすことが出来るのです。こきりこ節奉納が中秋の名月(旧暦8月15日)頃に行われるのもこのためと思われます (@@;)
しかし、マドが道満(ひっくり返すとマド)ならハレは晴明。蘆屋道満と安倍晴明が登場するのです。ドーマンセーマンですね。九字のセーマンと五芒星のセーマンがマドとハレなのです。
歌詞の三番目でヒヨドリが出てくるから、源義経の鵯越(ひよどりごえ)=逆さ落としが連想され、源氏に敗れた平家の落人の歌と分かるのです。ヒヨドリの声に目を覚ます落人の哀しさを歌っているわけです (`;ω;´)
さて、残る謎のデデレコデンは、雷神の持つ10の太鼓が生命の樹のセフィロト。でんでん太鼓とは電電太鼓のことで、雷神の象徴なのです。雷神=カヴ(閃光)だから、この歌詞は絶対神の召喚となっているのです。
最後の歌詞の嫁の松明は灯火ですからね (@@;)
だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。
隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう。
ルカによる福音書8章16-18
なお、飛鳥氏が講演会で源義経を取り上げるようです (^^)
コキリコの竹は 七寸五分(しちすんごぶ)じゃ
長いは袖(そで)の かなかいじゃ
マドのサンサは デデレコデン
ハレのサンサも デデレコデン
全文
この歌詞で大事なのは七寸五分。七と五が出てくるからには七五三を構成する三も出てくるはず。実際、サンサは三叉で三が出てきます (;・∀・)
このように、一番目の歌詞で、これがカッバーラ(かんばら)だと主張しているわけです。だから、マドのサンサもハレのサンサもカッバーラ。デデレコデンも当然、カッバーラで解釈しなくてはならない。もちろん、このヒントも『失われたカッバーラ「陰陽道」の謎』に描かれている (~o~)
門松の竹は生命の樹を象徴
サンサが三叉なら、三叉を縦横に組み合わせた九字が連想される。マドは円(まどか)で陽の円。ハレは晴れるを連想しますが、元々はお月見がハレの日。月は陰だから、ハレとマドで陰陽となります。陰は四角だから四角と円の陰陽とも見なすことが出来るのです。こきりこ節奉納が中秋の名月(旧暦8月15日)頃に行われるのもこのためと思われます (@@;)
しかし、マドが道満(ひっくり返すとマド)ならハレは晴明。蘆屋道満と安倍晴明が登場するのです。ドーマンセーマンですね。九字のセーマンと五芒星のセーマンがマドとハレなのです。
歌詞の三番目でヒヨドリが出てくるから、源義経の鵯越(ひよどりごえ)=逆さ落としが連想され、源氏に敗れた平家の落人の歌と分かるのです。ヒヨドリの声に目を覚ます落人の哀しさを歌っているわけです (`;ω;´)
さて、残る謎のデデレコデンは、雷神の持つ10の太鼓が生命の樹のセフィロト。でんでん太鼓とは電電太鼓のことで、雷神の象徴なのです。雷神=カヴ(閃光)だから、この歌詞は絶対神の召喚となっているのです。
最後の歌詞の嫁の松明は灯火ですからね (@@;)
だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。
隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう。
ルカによる福音書8章16-18
なお、飛鳥氏が講演会で源義経を取り上げるようです (^^)